東京でカラヴァッジョ 日記

美術館訪問や書籍など

メトロポリタン美術館のヴァン・ダイク《パレルモのため代禱する栄光の聖ロザリア》

2021年05月06日 | 西洋美術・各国美術
  芸術新潮2020年7月号の「海外アートSTUDY最前線」で知った作品。
 
ヴァン・ダイク
《パレルモのため代禱する栄光の聖ロザリア》
1625年頃、99.7×73.7cm
メトロポリタン美術館
 
 
   1624年春、25歳のヴァン・ダイクは、シチリア・パレルモに向かう。
 
   1599年生まれのヴァン・ダイクは、故郷アントワープでのルーベンス工房の筆頭助手としての活躍、1620年のロンドンでの制作、1621年からイタリアに行きジェノヴァを拠点として研究&制作と、若くして、肖像画家として国際的なキャリアを築きつつある。
   今回のパレルモ訪問は、シチリア島のスペイン副王エマヌエーレ・フィリベルトに招待されたもので、その肖像画を描くことが主目的である。
 
 
ヴァン・ダイク
《エマヌエーレ・フィリベルトの肖像》
1624年、126×99.6cm
ダリッジ絵画館
 
 
   ところが、肖像画が完成しようとしていたとき、ペストがパレルモを襲う。
   5月7日、市内にて最初のペスト患者が報告される。チュニジアからの船が持ち込んだものとされている。
   たちまち感染が拡大する。
   6月中には市門が封鎖され、誰もパレルモを離れたり入ったりすることができなくなる。6月25日、副王は非常事態を宣言する。
 
   1625年ではあるが、疫病対策に関する布告によると、
・公の健康証明書を持たない限り、どこの出身であれ、誰もパレルモの街に入ることはできない。
・公の健康証明書を持たずに市門や港に来ても、街に入ることは許されない。
・違法にパレルモに滞在していることが発見された場合、その違法訪問者は、鞭打ちおよび王営ガレー船での7年奉仕の刑が処せられる。
   ただし、女性の場合は、ガレー船での奉仕に代わって、避病院での4ヶ月奉仕に減刑される。
・また、違法者が貴族の場合は、罰金および7年の幽閉の刑が処せられる。
 
   しかし、ペストは猛威をふるい続ける。
   7月末に市内視察を敢行した副王も罹患し、8月3日に死去してしまう。
 
   この年、市の人口13万人中、1万人以上が死亡する。
   ペストの流行はその年にとどまらず、1626年6月まで続いたという。
 
 
   そんなご時世に発見されたのが、聖ロザリアの遺骨である。
 
   聖ロザリアは、1133年にパレルモのノルマン貴族の家庭で生まれ、パレルモ郊外のペッレグリーノ山の洞窟に隠遁して信仰生活を送り、1166年に死去した女性聖人。
 
   1494年および1530年のペスト流行時にも実績を積んでいたが、1624年、彼女は本格的に動き出す。
 
   病気の女性の前に姿を現わす。次に、猟師の前に姿を現し、自分の遺骨のある場所を伝え、それを掘り出してパレルモ市内に運ぶよう命ずる。
   1624年7月15日、猟師は、お告げのとおり、聖人が過ごしたとされる洞窟にて遺骨を発見する。
   9月4日、聖ロザリアの図像を掲げた市中行列が敢行される。
   11月30日、遺骨の真性にかかる調査委員会が発足する。
   1625年2月22日、大司教により遺骨の真性宣言がなされる。
   3月3日、豪華な聖遺物容器に納められる。
   8月15日、パレルモの守護聖人として公認される。
   このスピードはおそらく緊急事態下にあっての異例的なものなのだろう。
 
  
   この間、画家は、パレルモから脱出することもできず、1625年9月まで約1年半、パレルモのペスト禍を目の当たりにすることとなる。
   フランドル・コミュニティに守られたVIP待遇にあったとは思われるが、異国の地でのペスト禍は心細かっただろう。
   しかし、さすがは西洋美術史上の巨匠である。特筆すべき作品をパレルモで制作することとなる。
 
 
 
   1つが、パレルモに滞在していた女性画家ソフォニスバ・アングイッソラ(1532頃-1625)の肖像画。
 
   ソフォニスバは、イタリア・クレモナの貴族の家に生まれ、画家として訓練を積む。1559年にスペインに行き、フェリペ2世の王妃の女官として宮廷に仕える。1568〜72年、マドリードに住み、2人の王女に絵のレッスンを行っている。その王女のうちの1人は副王エマヌエーレ・フィリベルトの母親である。1573年、シチリアの貴族と結婚し、6年間シチリア・カターニャ近郊で生活する。夫の死後、1579年にジェノヴァの商人と再婚し、ジェノヴァで35年間過ごす。1615年にシチリアに戻り、パレルモに住居を構える。夫婦は、パレルモのジェノヴァ・コミュニティにおける重要人物である。
 
   ペスト禍の1624年7月12日、ヴァン・ダイクはソフォニスバを訪問し、その肖像を描く。
 
 
ヴァン・ダイク
《ソフォニスバ・アングイッソラの肖像》
1624年、42×33.5cm
Sackville Collection, Knole
 
 
   彼女は96歳(実際は92歳くらい)であるが、記憶はしっかりしていて、頭の回転も早く、たいへん親切である。老齢のため視力は失っているが、絵画を鼻先に近づけて眺めることに大いなる喜びを感じている。私が肖像を描いているとき、いろいろと助言をしてくれた。光源を高くしすぎないこと、そうしないと、老人の皺の影が強くなりすぎるから。また、彼女の人生を語ってくれた。彼女の不幸は、手もしっかりしていて震えるようなこともないのに、視力を失ったことで絵を描けなくなってしまったことである。
 
   ヴァン・ダイクは、素描帳に、女性画家の肖像スケッチとともに、そのような書き込みを残している。
 
ヴァン・ダイク
《イタリア・スケッチブック、ソフォニスバ・アングイッソラ》
1624年、235×180mm
大英博物館
 
 
   もうひとつが、新たに聖ロザリアの図像を創造したことである。
 
(続く)

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。