今期(2024/4/16〜8/25)の「MOMATコレクション」展示より。
4室「長谷川利行 東京放浪」
無頼、天衣無縫、放浪と飲酒のデカダンス。
生き様も画風も同じく嵐のようであった長谷川利行が関西から上京してきたのは30歳を迎える1921年のこと。
独学で始めた油絵は白を基調に鮮やかな色彩が走る激しい作風が特徴で、大きな画面もたった数時間で仕上げてしまう速筆が評判でした。
彼のアトリエとなったのは関東大震災(1923年)後の東京の盛り場や下町です。
《カフェ・パウリスタ》と《ノアノアの女》に描かれているのは当時流行の最先端であったカフェ。
《タンク街道》《鉄工場の裏》《お化け煙突》はいずれも、労働者が集まっていた隅田川沿いの江東地域の風景です。
ときに「肖像画の押し売り」をしながら街をうろつきまわっていた長谷川の絵は、スピードに満ちた迫力がある一方で、ナイーブで詩的な印象を覚えさせます。
およそ100年前の東京を思い浮かべつつ、無造作になすりつけられたような筆が生み出す不思議な広がりをお楽しみください。
長谷川利行(1891-1940)の作品が9点も展示される。
うち5点が東京国立近代美術館の所蔵で、4点が寄託。
長谷川利行
《カフェ・パウリスタ》
1928年、東京国立近代美術館
パウリスタとは「サンパウロっ子」の意。1911(明治44)年にオープンし今も続く銀座店をはじめ、浅草、神田などにも店のあるカフェでした。
利行は時には行列ができるほど人気だったそのカフェの室内を、女給だけが立つ風景として描いています。静けさが、色彩の鮮やかさをさらに引きだしています。
本作は、利行が1931(昭和6)年頃に滞在していた台東区谷中の下宿屋に、家賃代わりにおいていったもの。長く行方不明でしたが、下宿屋のご子息がテレビ番組に鑑定に出したことをきっかけに、2009年度、当館が購入しました。
長谷川利行
《鉄工場の裏》
1931年、東京国立近代美術館
長谷川利行
《前田夕暮像》
1930年、東京国立近代美術館
前田夕暮(1883-1951)は、歌人。
前田の証言によると、初夏の夜、突然長谷川が訪問してきてモデルを頼まれ、籐椅子に座らされ、1時間半ほどで描かれた、という。
長谷川利行
《岸田国士像》
1930年、東京国立近代美術館
演劇界の芥川賞とも言われる「岸田國士戯曲賞」にその名を残している岸田國士(1890-1954)。
この絵が描かれたのは彼が40歳を超えた頃で、ちょうど次女が生れた年にあたります(その次女とは、女優の故岸田今日子のことです)。
黄色は椅子でしょうか。黒のジャケットとの強いコントラストが印象的です。また胸ポケットに見えるのはポケットチーフでしょうか。実際に岸田はよくチーフをさしていたそうですが、絵の中では、黒い面の中の格好のアクセントになっています。黒のジャケットの重厚さに比べると、手や足の部分の密度の薄さや、背景に見える縦方向の筆致の粗さが際立って見えてくるのも特徴です。
長谷川から知人を通して描かせてくれと強引に依頼。速筆で知られる長谷川としては珍しく制作に4〜5日をかける。これを機に、毎日のように劇作家を訪ね、小遣いをねだるようになったという。
長谷川利行
《タンク街道》
1930年、寄託
これは千住にあった東京ガスのガスタンクです。
低層の建物の中にガスタンクがそびえ立つ「風景」は、東京らしい「名所」として知られていたようです。手前の「街道」は赤や黄の鮮やかな色で、その奥にある「タンク」は主に褐色で描くことで、その存在感がいや増しています。ちなみに当時の円筒形のガスタンクは、中にあるガスの量により、まるで生き物のように高さが変わりました。
長谷川利行
《お化け煙突》
1935-36年、寄託
1926年に千住火力発電所の煙突として建てられた高さ83.82メートルの巨大煙突4本。
上から見ると、ひし形に配置されていたために見る場所により1本にも2本にも、さらに3本にも見えたという。発電所の解散により、1964年11月末までに解体。
長谷川利行
《ガイコツと瓶のある静物(頭蓋骨のある静物)》
1928年、寄託
頭蓋骨、残り2割くらいのウイスキーの瓶、絵画が描かれる。一種の自画像かも、との解説。
長谷川利行
《ノアノアの女》
1937年、寄託
当時新宿にあった喫茶店「ノアノア」の女給を描く。
長谷川利行
《大庭鉄太郎像》
1937年、東京国立近代美術館
大庭鉄太郎(1910-79)は、当時朝日新聞社会部の記者で、戦後は童話・時代物作家として活動した人であるらしい。
東京国立近代美術館は、長谷川作品をもう1点、《新宿風景》1937年頃を所蔵しているが、それは企画展「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」(会期:5/21〜8/25)に出品されるようである。