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【画像】「興亜のまぼろし」-2024年4・5月のMOMATコレクション(東京国立近代美術館)

2024年04月27日 | 東京国立近代美術館常設展
 今期(2024/4/16〜8/25)の「MOMATコレクション」展示より。
 
 
6室「興亜のまぼろし」
 第二次世界大戦下の日本は、欧米列強の支配からアジアを解放するというビジョン和田三造の《興亜曼荼羅》に示されるような、いわゆる「大東亜共栄圏」構想を掲げ、インドネシアやフィリピン、ビルマ(現在のミャンマー)など南方に進出しました。
 その背景には、石油や鉄鋼などの資源や航空基地の獲得といった戦争遂行上の目的がありました。
 占領地域では日本語教育などの皇民化政策がとられ、現地の人々は日本の戦時体制に組み込まれていきます。
 画家たちは「彩管報国」(絵筆で国に報いること)の理念のもと、戦争画を描きました。軍から委嘱された画家もいれば、自ら志願して現地に赴いた画家もいます。各地の戦闘場面や風俗を描いた絵画は、観衆の領土拡大への意欲を後押しし、戦意高揚に貢献しました。
 描かれた人々の表情には、画家たちのどのような眼差しが込められているのでしょうか。
 
 
斎藤素厳
《共栄》
1942年、東京国立近代美術館
 
 
和田三造
《興亜曼荼羅》
1940年、東京国立近代美術館
 1940(昭和15)年の第二次近衛内閣が唱えた「大東亜共栄圏」という対アジア構想では、日本を中心としてアジアのあらゆる民族が共存共栄する共同体の構築を理想としていました。この思想を図像化したのがこの作品です。
 一画面の中にバリ島、インド、タイ、ミクロネシア、朝鮮、中国などの建築や風俗が稠密に描きこまれています。
 そして画面中央に君臨する巨大な白大理石の彫像が「日本」の象徴だと思われるのですが、意外なことにそれは「日本的なもの」ではなく、勝利を言祝ぐ馬車を象った「西欧の古典」に依拠した造形なのです。
 
 
松見吉彦
《十二月八日の租界進駐》
1942年頃、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 「真珠湾攻撃」と同日の1941(昭和16)年12月8日、日本軍は上海共同租界(19世紀半ば以降、英米をはじめとする列強各国が行政・司法権を握っていた地域)を占領します。
 本作は、日本海軍が租界に進駐した時の様子を描いたものです。軍艦旗を手に、大通りを闊歩する日本兵の姿とは対照的に、沿道に立つ華人たちの表情はどこかおぼろげです。
 松見吉彦は和歌山県に生まれ、東京美術学校で西洋画を学んだ画家です。戦時中は海軍報道班員として活動し、作戦記録画を制作しました。
 
 
猪熊弦一郎
《◯◯方面鉄道建設》
1944年、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 題名では具体的な地名は伏せられていますが、タイとビルマ(現在のミャンマー)の間に敷設された泰緬鉄道の工事が描かれています。
 1942(昭和17)年7月から翌年10月にかけて行われた工事で、重労働と伝染病により、従事した現地住民や捕虜など12000人以上の犠牲が出たとされることから、「死の鉄道」とも呼ばれています。
 この作品は、パノラマ的な極端に横長の画面を使うことで、熱帯の植生を切り拓いて鉄道を敷設する大事業の過程をロングショットで捉えています。
 
 
鈴木良三
《衛生隊の活躍とビルマ人の好意》
1944年、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 鈴木は開業医の家に生まれ、東京慈恵会医科大学で学ぶかたわら、中村彝に師事しました。戦時中も、日中は絵画を制作し、夜間は病院で手術を行うという異色の画家でした。
 1943(昭和18)年には日本陸軍と日本赤十字社に依頼され、従軍画家としてビルマ(現在のミャンマー)の野戦病院に1ヵ月ほど滞在しています。
 現地の女性たちが着ているスカートは「ロンジー」という民族衣装で、職業などによって色が定められています。目の覚めるような赤色は、女性が看護師であることを示しています。
 
 
向井潤吉
《四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)》
1942年、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 1942(昭和17)年4月9日、日本はフィリピンのルソン島にあるバターン半島を占領しました。
 左右に画面を横切る人々は、前景がアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景が日本兵であり、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしています。
 日本陸軍の報道班員として現地に赴いた向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子で描き残しています。
 マラリアなどで多くの死者を出したこの行進は、のちに「バターン死の行進」と呼ばれることになります。
 
 
鶴田吾郎
《義勇隊を送る高砂族》
1944年、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 日本統治下において、台湾原住民は「高砂族」と呼ばれていました。山岳地域に暮らす彼らは優れた知覚と身体能力を持つことから、太平洋戦争中は義勇隊として日本軍の戦闘に駆り出されます。
 1943(昭和18)年、鶴田はニューギニア戦線から生還した台湾原住民に取材するため、台湾南部にあるルカイ族の部落を訪れました。本作は、その取材をもとに描かれた作品です。植民地や占領地域の住民に日章旗を持たせて「大東亜共栄圏」のスローガンを示唆する表象は、当時のメディアでも良く見られました。
 
 
藤田嗣治
《薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》
1945年、東京国立近代美術館(無期限貸与)
 
 
 
伊東深水
「南方風俗スケッチ」より
1943年、東京国立近代美術館
〈展示:〜6/16〉
 
「稲を運ぶ女」
 
「コーヒー園の番人」
 
「ボルネオの奥地に於る豊年の踊り」
 
「ジョクジャカルタ候の叔父の娘チャミナ」
 
「村の踊り子達」
 
「バリの踊り子チャワン嬢の家にて」
 
 1943(昭和18)年、深水は日本海軍の報道班員としてインドネシアのジャワ島やバリ島、カリマンタン(ボルネオ)島などを訪れ、4か月の滞在中に400点以上のスケッチを残しました。
 各地の風士や民族の特徴に関心を寄せ、人々の姿を生き生きと写し取っています。
 一見、のどかで美しいスケッチですが、このようなイメージは占領地域の異国情緒あふれる魅力を内地の人々に伝え、南方への進出を後押しする役割を担っていました。
 
 400点以上残したスケッチのうち、東京国立近代美術館は7点所蔵しているようだ。千葉県市川市が270点所蔵しているという。
 
 
【後日追加】
橋本関雪
《防空壕》
 1942年、東京国立近代美術館
〈展示:6/18〉
 
 1942(昭和17)年の夏、関雪は従軍画家としてインドネシア・ジャワ島西部にあるバンドンを訪れ、防空壕から猫が飛び出す瞬間を目にします。本作はその猫を女性の姿に変えて描かれたものです。
 この年、日本軍はジャワ島に上陸し、連合軍を降伏に追い込みました。現地の女性や白い花に異国趣味の眼差しが注がれる一方で、出来たばかりの防空壕の真っ自な壁面は、ジャワが「戦地」に組み込まれたことを物語っています。


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