東京でカラヴァッジョ 日記

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生誕150年 黒田清輝(東京国立博物館)

2016年04月10日 | 展覧会(日本美術)

生誕150年 黒田清輝-日本近代絵画の巨匠
2016年3月23日~5月15日
東京国立博物館


   特段作品に興味があるわけではない。今は黒田記念館で作品が常時展示、代表作4点も年3回公開と、触れようと思えば機会は多く既視感大。とはいえ、生誕150年+東博の特別展、何かを期待しつつ訪問する。


   まず観客を待ち受けるのは、《婦人像(厨房)》1892年・東京藝術大学蔵 with 次世代有機EL照明。
   モデルの女性の名前はマリア・ビヨー。フランス留学時代にグレー・シュル・ロワンに借りた家の大家さんである農家の娘。で、留学時代の恋人。で帰国とともにそれっきりとなる。ひどい話である。ドイツに留学した原田直次郎もそうである。本作で前年に続くサロン入選を目指したが、落選している。

   第1章は「フランスで画家になる-画業修学の時代 1884~93」。
   1866年生の黒田は、1884年に法律を学ぶためフランスに留学するが、1886年に画業に転じ、コランの画塾に入る。1893年まで滞在。留学時代の作品が並ぶ。1885年の《自画像》東博蔵 が最古作品。キャリア変更を伝える養父あて書簡も展示。レンブラントの模写が2点ある。オランダ・ハーグの美術館所蔵作品の模写。フェルメールには関心がなかったか。田園風景などを描いた小品油彩画、ほぼ東博蔵、がしばらく続くが、ほぼ興味はない。《赤髪の少女》1892年・東博蔵 辺りから留学時代の主要作品群が始まり、観る気になってくる。《読書》1891年・東博蔵 は、サロン入選作。読書するモデルの女性は、もちろんマリア・ビヨー。間もなく次の頁をめくろうとする目の向きが、洋書だなあと、どうでもよいことに頷く。《マンドリンを持てる女》1891年・東博蔵 は、《読書》と共にサロンに出品したがこちらは落選している。《ブレハの少女》1891年 は何処かで見ているなあと思うと、ブリヂストン美術館蔵。本展の黒田作品は東博蔵あるいは出身地である鹿児島市立美術館蔵が多いが、留学時代の主要作品群は他の所蔵先が多い。これら主要作品群の向かいの壁に並ぶのは、外光派の師・コランの作品6点(うちフランスから5点)。コランという画家には普段馴染みはないが、こうして黒田と対すると相応に楽しめるかな。しかし何故コランだったのだろうなあ。

   次の部屋に移ると、西洋美術の部屋。「黒田が学んだ西洋絵画」。コランの寓意的女性像、は前の部屋。カパネルのアカデミズム/歴史画、国内から1点。ミレーの農民画、なんとオルセー美から《羊飼いの少女》が。山梨県立美からも2点。ルパージュの自然主義絵画、これまたオルセー美から《干し草》が。2014年のオルセー美展で来日したばかり、早い再会を嬉しく思う。山梨県立美からブルドン作品も。印象派の様式、黒田は印象派の斬新な様式とは距離を置いたというが、国内からモネ、ピサロ、シスレー各1点。シャヴァンヌの壁画、島根県立美から油彩2点、もう1点も島根と思ったら、パリのプティ・パレ美から《冬(パリ市庁舎控えの間のための壁画下絵)》。2014年のBunkamuraのシャヴァンヌ展を懐かしく思い出す。この部屋は西洋美術展。

   第2会場に移る。

   第2章は「日本洋画の模索-白馬会の時代 1893~1907」。最初に重文《舞妓》1893年・東博蔵 が待ち受ける。しばらく関心薄が続いて、《昼寝》1894年・東博蔵 は印象派風、印象派の様式はいろいろあるわな、そして日清戦争従軍画家としての作品。1894年11月から翌年2月まで、パリのル・モンド・イリュストレの通信員として出向いたらしい。ただし作品に刺激的要素はない。肖像画。家族の肖像、《養父の像》《養母の像》は1898年・鹿児島市立美蔵、《少女・雪子十一歳》1899年・東博蔵 は黒田の姪。重文《湖畔》1897年・東博蔵 が登場。箱根の芦ノ湖が舞台。後の奥さんがモデル。ふ~ん、本展のメインビジュアルとして《湖畔》と《読書》を並べたのは見掛けの穏健さだけではないのだな。《木かげ》1898年・ウッドワン美蔵 は、《湖畔》他とともに1900年のパリ万博に出品後、長年ヨーロッパの個人コレクションにあり、1987年に帰国したという。
   裸体画シリーズ登場。ここは興味大。まずは《朝妝(ちょうしょう)》1893年・戦争時に消失 はパネル展示。1895年の京都の展覧会で出品可否論争が起きたが、展示は継続された。《裸体婦人像》1901年、静嘉堂文庫美蔵 は、有名な「腰巻事件」の当事者。腰巻姿を想像してみる。周りから胸はいいのかという声が聞こえる。《春》《秋》1903年・個人蔵 が次に並ぶが、こちらには何かエピソードがあるのかなあ。しかしまあ、裸体画=春画という感覚であるならば、直近永青文庫で春画展を観たばかりだけに、これらの作品への抵抗感の巨大さはわかる気がする。なまじっか芸術の至高なんて主張されたら余計に腹がたつ。と、裸体画シリーズはすぐに終了。

   第3章「日本洋画のアカデミズム形成-文展・帝展の時代 1907~24」。《野辺》1907年・ポーラ美術館蔵、《花野》1907~15年・東博蔵。外光派の路線は継続的に試みられている。《赤き衣を着たる女》1912年・鹿児島県歴史資料センター は、古典的なプロフィール(横顔像)、私は横顔像が結構好みなようだ。《桜島爆発図》1914年・鹿児島市立美術館蔵 は、噴煙、噴火、溶岩、降灰、湯気、荒廃の6点からなる小サイズのシリーズもの。「こうはい」が2つある。
続いて、「黒田をとりまく近代洋画」。日本洋画の夜明けをもたらした浅井忠、先にパリで油彩画を学び黒田を絵の道に導いた山本芳翠や藤雅三、黒田に学んだ小林万吾など10名12点は全て東博蔵。

   最後は、趣向を変えて、3コーナー。

   その1、戦災で失われた作品によるアトリエコーナー。《昔語り》1898年。189×307cmの大画面。住友家の須磨別邸にて被災。実物大写真パネルのほか、その画稿デッサンや下絵油彩計24点、全て東博蔵、が並ぶ。

   その2、《東京駅帝室用玄関壁画》再現コーナー。1914年制作の「海の幸、山の幸」を題材に当代の労働シーンを描いた「公共建築壁画」を映像などにより再現(「雰囲気体験」)。

   オオトリは、重文《智・感・情》1899年・東博蔵 のコーナー。
   「日本美術の将来のためには、人体表現の研究が不可欠と考えた黒田が、ちょうどギリシャ彫刻が西洋人の理想的肉体像とされているように、日本人の理想的肉体像として提示したもの」。私が初めて本作を初めて観たのは2004年の東博の特別展。その後若桑みどり氏や宮下規久朗氏の著作で興味を持ち、公開機会を知ると出掛けるようにしていたが、今は年3回黒田記念館で公開されるようになっている。黒田作品には興味を持たぬ私が、唯一気になる作品である。

   近年、日本洋画初期の画家の回顧展を幾つか見ている。直近では、五姓田義松、原田直次郎、黒田清輝、少し前では川村清雄。皆欧州留学しているが、この後の成果を見ると、当時欧州で選び学んだ流派をもって日本洋画界を渡っていくことの困難さを思う。



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