全巻修理完了記念
日本最古の医学書・国宝「医心方」の世界
2022年2月8日〜3月21日
東京国立博物館 特別1室・特別2室
「医心方(いしんぽう)」。
984年(1,038年前)に編纂・成立。
古代東洋医学に関する知識の宝庫。
日本に現存する最古の医学書。
東博が所蔵する写本は、平安時代・12世紀と現存最古の写本であり、かつ全巻が揃っているという。
室町時代に正親町天皇から典薬頭の半井光成に下賜されて以降、医家である半井家は門外不出として秘蔵。江戸時代末期に幕府に貸し出されたほかは、国に譲渡された近年まで一時期を除き公開されることはなかったという。
1982年に国の所蔵。1984年に国宝指定。
今回の公開は、2015〜20年にかけての全巻修理の完了を記念したもので、全30巻1冊すべてが展示(フルオープンではないものの)される。
また、幕末期に江戸幕府の医学館において本巻の書写・板刻が行われ、版本として万延元年(1860)に刊行された際に、本巻の返還をめぐって幕府と半井家との間に交わされた書状類(国宝附指定)もあわせて展示される。
医学の、挿絵がなく文字のみの写本と、私には歯が立たない展示品であるが、しかし、解説を読んでいるとなかなか面白い。
以下、全30巻1冊の一部について、解説および画像を掲載する。
「医心方(いしんぽう)」とは
東京国立博物館が所蔵する「医心方」三〇巻一冊は、書写時期の異なる三つのグループで構成されています。二七巻は平安時代に、一巻は鎌倉時代に書写され、残る二巻と一冊は江戸時代に補われたものです。平安時代の写本のうち二五巻は、巻第八「手足部」の冒頭に挿入された文書によって、書写された時期や経緯が知られます。また、本文を読み下すため墨や朱で仮名、注記、各種の符号が書き込まれ、当時の読み方を知る貴重な資料でもあります。別本の二巻には紙背に文書があります。
「医心方」は室町時代に正親町天皇から典薬頭の半井光成に下賜され、半井家は門外不出としてきました。そのため江戸時代末期に幕府に貸し出されたほかは、国に譲渡された近年まで一時期を除き公開されることはありませんでした。
国宝「医心方」
丹波康頼(たんばのやすより、912~995)撰
巻第一「治病大体部」平安時代・12世紀
巻第一は「医心方」のいわば総論にあたり、医師として心得るべき倫理的条項を医学書や経典から引用した撰者丹波康頼の博学ぶりと考え方がうかがえる巻です。薬の調合方法、使用方法、また本草内薬850種、本草外薬70種の諸薬の和名等が記されています。
巻第二「忌鍼灸部」平安時代・12世紀
巻第ニは鍼灸に関する巻です。針博士である丹波康頼の専門分野といえます。そのため「医心方」で唯一、自序が掲げられています。前段には孔穴の説明と対処法、後段には様々な禁止事項(陰陽道に基づく天文、日時の吉凶等)が書かれています。
巻第三「中風部」平安時代・12世紀
巻第三は風病についての巻です。風靡は風邪のことではなく、目にみえない外界の影響により引き起こされると考えられた症状に対して使われた語です。感染症や脳疾患、けいれん、心の病気等、多くの病気を指しています。原因は不明でも症状に対する分析は詳細です。
巻第四「鬢髪部」鎌倉時代・13世紀
巻第四は、前段は毛髪に関すること、後段は皮膚に関する病気(ニキビ、シミ、ソバカス、ホクロ、イボ、ウオノメ等)と対処法について記しています。古代でも外面に関する悩みは人々の関心事でした。女性の豊かな黒髪は宮廷等に出仕する際の判断材料にもなりました。
巻第五「頭面部」平安時代・12世紀
巻第五は、耳・目・鼻・口・歯・咽喉に関する病気と対処法について記しています。主に頭部に現れる症状から表題を「頭面部」としており、中でも目に関することが18章と最も多く、当時の栄養・衛生状態の悪さ、採光や照明の暗さ等から、眼病が多発したことがうかがえます。
巻第六「胸腹痛部」平安時代・12世紀
巻第六は、胸や腹だけでなく、いわゆる五臓六腑や、骨・筋・皮等、人体の広範囲にわたる病気について、痛む部位ごとに、その種類と対処法を記しています。当然ながら臓器についての考え方は現代と全く異なり、癌や結核等の進行性の病気であっても部位ごとに対処しました。
巻第七「陰瘡幷穀道部」平安時代・12世紀
巻第七は、性器に生じた瘡(かさぶた・できもの)や肛門(穀道)周辺の病気とたい、またそこから発展し、寄生虫症についても記しています。古代の医学では潜伏期間のある性病についてはわかっておらず、発症した部位ごとに別の病気とみなされていました。
巻第八「手足部」平安時代・12世紀
巻第八は、その大半を脚気の様々な症状と対処法について割いています。ただし「医心方」でいう脚気とは、現在でいう脚気を含む、中風、リュウマチ、痛風、浮腫や冷え性、歩行困難、けいれん等、脚に関わる多様な病状の総称を指しています。
巻第九「咳嗽部」平安時代・12世紀
巻第九は、風邪が引き起こす諸症状について対処法が記されています。古代では風邪と風病を区別していたことは巻第三からもわかりますが、本巻は現在にいう風邪とは無関係の、喘息、心気亢進、痰、食欲不振、嘔吐、消化不良、シャックリまで含めています。
巻第十「積聚幷水腫部」平安時代・12世紀
巻第十には、現代ではあまりなじみのない病名が多く出てきます。症状からみると、激痛、むくみ、腹水、栄養価のないものを食す異食症、黄疸などがあげられ、それらの対処法が記されています。古代の医学では原因が特定できない痛みを、本巻にまとめているかのようです。
巻第十一「霍乱幷下痢部」平安時代・12世紀
巻第十一は、嘔吐や下痢に関する症状と対処法について記されています。霍乱は日射病や熱中症等によって引き起こされる吐瀉や下痢、めまい、悪寒、しびれ等をいいます。原因の特定はできていませんが、誰でも罹るものなので、対処法も多様です。
巻第十二「消渇幷大小便部」平安時代・12世紀
巻第十二は、糖尿病、腎臓病、前立腺肥大、性病、泌尿器結石、大小便の失禁や便秘等、排便、排尿に関する症状と対処法が記されています。冒頭にある消渇は喉の渇きのことで、糖尿病の第一の自覚症状が激しい喉の渇きであることから、その別名と考えられます。
巻第十三「五労七傷部」平安時代・12世紀
巻第十三は、結核を指す伝屍病を除けば、比較的軽症かつ身近な病状と対処法が記されています。男性の精力減退、不眠症や嗜眠症といった睡眠症が、多汗症等です。伝屍病が本巻にあるのも、慢性的な疲労・消耗によるものとの考えがあったためと思われます。
巻第十四「治卒死幷傷寒部」平安時代・12世紀
巻第十四は、死者の蘇生方、憑き物とその祓い方を記し、古代社会を震撼された「傷寒」をまとめています。
「傷寒」はマラリアやチフス・天然痘などの伝染病ですが、古代では悪寒発熱を伴う熱病の総称でした。それらを邪気や鬼の仕業としてその予防を考えたのです。
巻第十五「癕疽部」平安時代・12世紀
巻第十六「腫物部」平安時代・12世紀
巻第十六は、皮膚に現れる様々な症状と対処法が記されています。投薬の一つに、医学書「千金方」で「外国の神方」とされる茴香があります。南欧または西アジアを原産とする茴香は、芳香、健胃、去痰、駆風、鎮痛剤の配合薬として、現代漢方でも用いられています。
巻第十七「丹毒瘡部」平安時代・12世紀
巻第十七は、十六と同様に皮膚病に関するものです。同じ症状でも部位により異なる病名がつけられました。皮膚病は一目で識別できることから、人類史とともにある最古の病気であるといえます。本巻では感染症から虫刺され、あせも、漆かぶれまで記されています。
巻第十八「湯火幷灸不愈部」平安時代・12世紀
巻第十八は、火傷、金属による裂傷、捻挫・骨折・脱臼、動物に噛まれた傷、それらが原因の寄生虫症等の症状と対処法が記されています。金属による傷に記述を多く割いているのは、戦闘や狩猟等に金属器を用いることが普及したことに由来します。
巻第十九「服石部」平安時代・12世紀
巻第十九は、二十と並び様々な鉱物を原料とする薬の処方と効能について記しています。古代では、枯れてしまう草木より、不変の鉱物の方に神秘性、希少性を見出しました。その代表が硫化水銀の結晶である丹ですが、その服用は薬害と直結していました。
巻第二十「服石諸病部」平安時代・12世紀
巻第二十には、十九で示された服石によって生じた薬害症状とその対処法が記されています。「薬石効なし」という諺は、服石・服食を試しても効果がなかったことに由来します。服石は高価で、有力者に限られて処方されていたのは皮肉な出来事でした。
巻第二十一「婦人部」平安時代・12世紀
巻第二十一は女性の病状と対処法が記されています。女性の病気に注目し、巻二十一以下三巻が用意されたことは驚きです。前段には急性乳腺炎の対処法、中段には陰部の腫瘍・肉腫、後段には月経にかかわる症状と対処法、また妊娠・出産中の薬物の投与への注意等が記されます。
巻第二十二「婦人部」江戸時代・17世紀
巻第二十二は、妊娠月数別の諸注意と鍼灸の禁忌、胎教、妊婦と胎児の養生法、習慣性流産の予防と治療、つわり、むくみほか、妊娠中の諸病の対処法などを記し、また「医心方」で唯一の挿絵である妊娠図10図を収めます。本巻は江戸時代初期の写本です。
巻第二十三「産婦部」平安時代・12世紀
巻第二十三は、出産に関する症状と対処法が記されています。出生と死は、人生の大事であり、それだけに様々な禁忌や儀礼が整えられてきました。天文暦学による妊婦の座る方向や産湯を沸かす位置が決められており、胞衣(胎盤)の納め方まで記されています。
巻第二十四「治無子部」平安時代・12世紀
巻第二十四は子供の成長を扱います。不妊の原因と対処法から始まり、妊娠の確認方法、胎内の女児を男児に変える方法、新生児の健康・寿命・禍福等の占い方に及びます。乳幼児死亡率の高い古代で、生まれた子を成人させたいとの願いがうかがえます。
巻第二十五の一「小児部」平安時代・12世紀
巻第二十五の一は「医心方」の中で最も章数、紙数が多く、その四分の一が新生児を対象とした内容です。巻第二十四が子供の生育を占い頼みとしていたのに対し、本巻は具体的な病状と対処法を記したいわば育児書です。感染症の記載が多いことが当時の状況を反映しています。
巻第二十五の二「小児部別巻」江戸時代・17世紀
巻第二十五の二は、二十五の一の「治小児腹痛方 第七十」から「治小児誤呑竹木方 第百六十三」までを書写した抄本で、江戸時代作成のものです。書写の元とした写本は半井家伝来本と思われ、巻第二十五の一とは異同が見られます。
巻第二十六「延年部」平安時代・12世紀
巻第二十六は不老長寿と若返り(延年方)に始まり、およそ人が抱く願望に応える巻となっています。美しくある方法、芳香を発する方法、頭をよくする方法、相思相愛になる方法、金持ちになる方向、寒暑を避ける方向、兵刃の災いを避ける方法、毒虫・毒蛇を避ける方法などです。
巻第二十七「大体養生部」平安時代・12世紀
巻第二十七は病気にならないための健康法について記しています。養生は、知識ではなく何度も繰り返して体で覚えるものだとし、精神と身体の調和を訴えています。発汗したときの対処、排泄の心得、睡眠・起居の動作、眼・髪・歯・爪の手入れなど細かく解説しています。
巻第二十八「房内部」江戸時代・17世紀
巻第二十八は男女の性愛について記しています。原本は流出し、江戸時代初期の写本です。本巻は「医心方」が猥褻な指南書であると誤解されてきた原因ともなりましたが、時代の制約として男性中心の視点があるものの、生きとし生けるものにとって普遍の原理を述べています。
巻第二十九「飲食部」平安時代・12世紀
巻第二十九は食に関する事柄を記しています。水や食物の安全性の見分け方と摂取法、誤飲・誤食による疾患とその対処法、飲酒による病気とその対処法、キノコやフグ等の種類別の中毒対処法等51項目が、豊富な事例を交え記されています。
巻第三十「証類部」平安時代・12世紀
巻第三十は、五穀部24種、五菓部41種、五肉部45種、五菜部52種の4章からなる古代の食物とその効用、食する場合の注目点について記しています。同じものを別名で解説する等の混乱はありますが、古代人が食していたものの豊富さが本巻からうかがえます。
江戸時代に補われた2巻1冊は、特別に人気の高い巻だったのだろうか。
今秋開催予定の東京国立博物館創立150年記念 特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」にも出品されるのだろうが、おそらくごく一部しか出ないだろうから、興味のある方には貴重な機会なのかも。