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アルマン・ギヨマンと宝くじ - プーシキン美術館展(東京都美術館)

2018年05月02日 | 展覧会(西洋美術)
プーシキン美術館展
旅するフランス風景画
2018年4月14日~7月8日
東京都美術館
 
 
   アルマン・ギヨマンは、フランス印象派の風景画家である。
 
   1841年、パリの労働者階級の家庭に生まれる。
 
   1857年、15歳のときに叔父が経営するランジェリー店で働き、夜は絵の勉強をするという生活を始める。1860年からパリ・オルレアン間鉄道会社に勤務し、余暇に絵を描く。
 
   アカデミー・シュイス(自由画塾)で勉強を始め、そこでピサロと出会い、またセザンヌを知る。1861年頃のこと。終生の友となる。
 
   1866年、いったん職を辞し、絵に専念する。が、絵で生計をたてることはできず、1868年、パリ市土木課の夜間業務に勤務し、日中を絵画制作にあてることとする。
 
   1870年代、ピサロやセザンヌを訪ねて制作を共にし、またガシェのところで
一緒に版画も制作する。印象派展にも参加する。1874年の第1回、1877年の第3回、1880年の第5回、1881年の第6回、1882年の第7回である。
 
   ギヨマンのアトリエでピサロはシニャックと出会い、またスーラを知る。彼らの加わった最後の印象派展、1886年の第8回にギヨマンも出品する。1886年のアンデパンダン展(無審査展)にも出品する。この頃、ファン・ゴッホと交遊をもつ。ゴッホの弟テオがギヨマンの作品数点を購入する。
 
   1887年、ギヨマンは結婚する。妻は学校の先生をしており、ギヨマンを経済的に支える。
 
   そして1891年、50歳のギヨマンは、宝くじで10万フランの大金を得る。
 
   以降、職を辞し、絵画制作に専念する。また、絵画制作のための旅行もできるようになる。
 
   1927年、パリに没する。
 
 
 
   1891年の10万フランの価値はどの程度だったのだろうか? 
 
   特段の贅沢をしなければ一生働かずに生活できるほどの大金だったのか? 例えば数年くらいなら他に収入がなくても生活できる、しばらくの猶予を与えられた程度の金額だったのか?
 
   当時の1フランは現在の円価値で500円〜1,500円との説に従えば、5,000万円から1.5億円、事実であるなら凄い金額である。
 
   大金を得ても人生の道を踏み外すことなく念願の絵画制作専念、というギヨマンは、宝くじ高額当選者の鏡。
 
 
 
本展出品作
 
アルマン・ギヨマン
《廃墟のある風景》
1897年、79×93cm
 
  本展出品作は、大金を得て6年後の作品。
  大金を得てからのギヨマン、どのようなドラマが繰り広げられたのか、情報不足。1920年頃まで精力的に制作を行っていたことは確かなようである。


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