メスキータ
2019年6月29日〜8月18日
東京ステーションギャラリー
サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ。初めて名を知る画家。
・1868年、アムステルダムにてポルトガル系ユダヤ人の家庭に生まれる。
・1882年、国立美術アカデミー不合格、建築事務所の見習いに。1885年、建築家になるため国立美術工芸学校に入学、一年後、国立師範学校にうつるが、国立美術工芸学校でも学び続ける。1887年、初等教育の描画教育の資格を取得する。
・1896年、最初の木版画を制作。
・版画家、画家。デザイナー、美術学校の教師としても活躍。美術学校の教え子として、あのM.C.エッシャー(1898〜1972、30歳違い)がいる。
・1944年1月31日から2月1日にかけての深夜、メスキータ一家は連れ去られ、強制収容所に送られる。画家と妻は2月11日頃、アウシュビッツで命を落とす。息子ヤープも3月30日にテレジエンシュタットで死亡する。
・1944年2月半ば、メスキータが逮捕されたことを知ったエッシャーは、アトリエからメスキータの作品200点を持ち帰る。2月の前半に、既にヤープの友人たちも含め多くの人々がメスキータ作品を救い出していた。
・1946年、エッシャーの尽力により、アムステルダム市立美術館にてメスキータ展が開催される。
「エッシャーが命懸けで守った男。」とエッシャーを前面に出しての宣伝も、エッシャーに触れられることく少なく、私的に印象に残るのは作品《シマウマ》(3-30)のエピソードくらいか。
《シマウマ》1918年頃(3-30)
存在自体が木版のシマウマを、木版にすることは自制しろ。と言ってたのに。
【本展の構成】
第1章 メスキータ紹介
第2章 人物
第3章 自然
第4章 空想
第5章 ウェンディンゲン
時系列ではなく、モチーフ別の展示。
メインとなる木版画のほか、エッチングやリトグラフの版画作品が約180点、油彩、パステル、鉛筆画、ペン画などを含めて全240点ほど。すべてドイツ人夫妻の個人コレクションより。
第1章は、画家の自画像、息子や親しい人たちの肖像など。
エッチング作品《ハールレムの市庁舎》(1-17〜18)は、出品作では珍しい建造物をモチーフとする作品だが、私の滞在中、その前から長く動かない人を何人も見かけるほど、強い吸引力があるらしい。
第2章は、章題どおり人物を描いた作品。
第3章は、動物や植物を描いた作品。
アムステルダムの動物園・植物園に招来された異国の動植物がお気に入りのモチーフであったという。
第4章は、第3章までとがらっと雰囲気が変わり、戯画風作品が並ぶ。
第5章の章題はメスキータが深く関わった雑誌名。その実物が展示される。
第3章の途中までは、版画表現の可能性への挑戦というか、「制作の追求」的な印象の作品が続き、そういう画家なのだなあと見ていると、第3章の途中から商業デザイン的な「かわいい」動物作品が並び、第4章は「戯画」風作品が並ぶ。
作品の写真撮影は不可。展示室の最後に撮影可能バナーが6作品用意されている。
《ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像》1922年(1-14)
《マントを着たヤープ》1913年(1-13)
以上は、第1章展示作品。
いずれも息子を描いたもの。画家はしばしば息子をモデルにした作品を制作しているとのこと。
第1章では、《メメント・モリ(頭蓋骨と自画像)》(1-04〜09)を長く眺める。
《歌う女》1931年(2-58)
《トーガを着た男》1923年(2-49)
以上は、第2章展示作品。
第2章では、《帽子の女》1923年(2-50)が一番のお気に入り。《裸婦》1914年(2-19)や印象的な雨表現のなか子供を背負う《父》1938年(2-62)も長く眺める。
《パイナップル》1928年(3-73)
《アヤメ》1920年(3-68)
以上は、第3章展示作品。
上記の《アヤメ》はお気に入り。他には《鹿》1925年(3-32〜34)、《バッファロー》1930年(3-45〜49)など。
《鹿》は、5種類用意されたチラシの1つに採用。
第4章展示作品のバナーはないので、5種類用意されたチラシから1種を。
《ファンタジー:稲妻をみる二人》
1914年(4-09)
チラシの裏面の図版から。
《幻想的なイマジネーション:さまざまな人物》
1925年頃(4-26)
5種類用意されたチラシは、表面の図版が異なるだけではなく、裏面の図版も異なるという凝りよう。
前展覧会「ルート・ブリュック」展も素晴らしかったが、「メスキータ」展もすごく興味深い。東京ステーションギャラリーは、私が初めて名を知るような作家の回顧展を多く開催してくれる、ありがたい存在。