関東大震災と東京国立博物館
2023年7月11日〜9月3日
東京国立博物館本館特別2室
【関東大震災と上野公園】
東京では東部の下町地域のほとんどが焼失したため、上野公園に多くの避難者が押し寄せ、その数は一時50万人にのぼったとみられます。震災後、上野公園内には200棟以上のバラック (仮設住宅)が建設されて、一時約1万人が暮らすとともに、既存建物を転用した各種救援施設も開設されて、約1年半にわたり被災者の避難所として利用されました。当時、上野公園を管轄していた当館には、バラック建設などの記録や、震災害の写生図が残されています。
《大震災関係書類 大正十二年九月》
これは、博物館総長が宮内大臣に対し、上野公園内のバラック建設とその許可を出す権限を求めたものです。
当時、博物館も上野公園も宮内省管轄であったことに由来します。
この許可をもって、バラック建設を希望する団体は、博物館総長あてに申請を出す体制となりました。
当時の東博は、管理者として上野公園の管理業務を担っていた。
《上野公園バラック配置図》
これは上野公園に建てられたバラックの配置図です。
この図面では、赤色・オレンジ色・青色などを塗った短冊型の印で表わされています。
バラックは寝泊りできるものに限らず、診療所・児童相談所・配給所などを目的としたものもありました。
洋画家・田代二見(1890-1960)による《大正震災焼跡写生図》全54図のうち、上野関係の2図が展示。
「上野公園における避難民とバラック」
上野公園は高台に位置することもあり、火災による被害をほとんど受けなかった。空地も多く仮設の建物を建てることが比較的容易だったことから、避難所として活用される。本作には、避難した人々や、荷物を運搬する大八車が記録される。
「上野駅趾」
明治18年に竣工した煉瓦造二階建ての駅舎は、地震発生の翌日に焼失する。屋根が無くなり壁だけが残った駅舎の姿が記録される。
ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)を見ると、上記2図のほか、次の3図の画像が掲載されている。(他の49図は掲載されていない。)
「浅草仲店より観音堂」
✳︎2022年6月展示時に撮影
「我妻橋」
✳︎2022年6月展示時に撮影
「牛ヶ淵公園の避難者」
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
これら54図は、画家本人から昭和16年に東博に寄贈されたもの。
ほぼ同図様の作品が東京都復興記念館にも所蔵されるが、微妙な違いもあるという。
復興記念館収蔵品データベースを確認する。
《震災直後風景油絵》と題し、全48図が所蔵されている。購入であるらしい。
同データベースには、48図すべての画像が掲載されている。
以下、題名だけ記載する。
1 駿河台付附近
2 お茶の水附近
3 駿河台付附近より小川附近を望む
4 吉原江戸町附近
5 京橋明石町外人邸宅跡天主公教会附近
6 京橋通り
7 浅草公園雷門
8 本郷座の残骸
9 湯島台一望
10 吉原仲之町
11 京橋明石附近キリスト教会跡
12 水道橋附近より駿河台を望む
13 牛ヶ淵公園の避難者
14 ニコライのタベ
15 日本橋通り3丁目附近
16 黒門町より湯島台を望む
17 麹町区上6番地
18 旅籠町より湯島台を望む
19 築地教会跡
20 本所横網町跡安田邸焼跡
21 築地附近
22 神田橋より鎌倉河岸を望む
23 築地教会跡
24 30間堀を距て采女町方面を望む
25 吾妻橋サッポロビール会社
26 爼橋附近より竹橋方面を望む
27 日本橋交差点白木屋焼跡正面
28 神田橋より旅籠町を望む
29 大橋邸より大橋図書館を望む
30 上野公園避難の一部
31 小川町附近一望
32 上野駅跡
33 淡路町附近
34 京橋明石町天主教会跡正面
35 京橋出雲町外堀方面より京橋方面
36 聖路加病院その2
37 隅田川より本所方面一望
38 京橋明石河岸
39 隅田川より浅草公園を望む
40 明石町通り
41 上野広小路松坂屋跡附近
42 お茶の水高師跡
43 深川方面一望
44 聖路加病院その1
45 ニコライ教会跡
46 紅梅町附近
47 神田三崎町仏英和女学校跡
48 日本橋北詰より江戸橋を望む北は魚河岸
見に行ってみたいと思いました🐻
コメントありがとうございます。
震災の絵の展示は、2図限りですので、絵が目当てだと拍子抜けとなるかもしれません。全54図のうち、東博が時々公開するのは5〜6図で、それ以外は秘蔵しているものと勝手に想像しているところです。