高階秀爾『名画をみる眼』
レンブラント「フローラ」-明暗のなかの女神-
事実、レンブラントがここで描き出したのは、物語のなかの架空の女神ではなく、彼にとって最も親しかったふたりの女性である。(略)三点のフローラは、彼の妻サスキアを描いたものであり、このメトロポリタンのフローラは、彼の後半生の伴侶ヘンドリッキエ・ストッフェルスにほかならないのである。
このような家庭の事情を背後においてあらためて彼の四点のフローラ像を見てみると、そこに、レンブラントの生涯がそのまま反映されているのに気づく。
1630年代に描かれた最初の(エルミタージュ、ロンドンの)2点では、彼の最も華やかであった時代にふさわしく、サスキアは豪奢なドレスを身にまとって、何の不安も心配もない若妻の姿で描かれている。しかし、1641年に描かれたドレスデンのフローラでは、背景はかつての華やかな装飾性を失い、サスキアの表情にも、近づきつつある不幸を予感しているような一抹の寂しさがある。(中略)
そして、最後のこの(メトロポリタンの)ヘンドリッキエを描いたフローラになると、表面的な華やかさはすっかり消え、女神は豪奢なドレスや花飾りによってではなく、深い内面的な人間性によって輝くのである。
上記著作では、エルミタージュ美、ロンドンNG、ドレスデン美、メトロポリタン美の、計4点の《フローラ》が取り上げられている。
レンブラント「フローラ」-明暗のなかの女神-
事実、レンブラントがここで描き出したのは、物語のなかの架空の女神ではなく、彼にとって最も親しかったふたりの女性である。(略)三点のフローラは、彼の妻サスキアを描いたものであり、このメトロポリタンのフローラは、彼の後半生の伴侶ヘンドリッキエ・ストッフェルスにほかならないのである。
このような家庭の事情を背後においてあらためて彼の四点のフローラ像を見てみると、そこに、レンブラントの生涯がそのまま反映されているのに気づく。
1630年代に描かれた最初の(エルミタージュ、ロンドンの)2点では、彼の最も華やかであった時代にふさわしく、サスキアは豪奢なドレスを身にまとって、何の不安も心配もない若妻の姿で描かれている。しかし、1641年に描かれたドレスデンのフローラでは、背景はかつての華やかな装飾性を失い、サスキアの表情にも、近づきつつある不幸を予感しているような一抹の寂しさがある。(中略)
そして、最後のこの(メトロポリタンの)ヘンドリッキエを描いたフローラになると、表面的な華やかさはすっかり消え、女神は豪奢なドレスや花飾りによってではなく、深い内面的な人間性によって輝くのである。
上記著作では、エルミタージュ美、ロンドンNG、ドレスデン美、メトロポリタン美の、計4点の《フローラ》が取り上げられている。
そのうち、
1)サスキアをモデルとするエルミタージュ美の《フローラ》
2)ヘンドリッキエをモデルとするメトロポリタン美の《フローラ》
と、
3)「フローラ」ではないが同じような趣きのサスキアをモデルとしたカッセル美の《横顔のサスキア》
が来日し、鑑賞することができた。
エルミタージュ美、1634年頃
1992年Bunkamuraザ・ミュージアム
「レンブラント展-彼と師と弟子たち」
カッセル美、1634年頃
1998年伊勢丹美術館
「レンブラントと巨匠たちの時代展-ドイツ・カッセル美術館秘蔵の名画コレクション」
1998年伊勢丹美術館
「レンブラントと巨匠たちの時代展-ドイツ・カッセル美術館秘蔵の名画コレクション」
2012年東京都美術館
「メトロポリタン美術館展-大地、海、空-4000年の美への旅」
いずれも素晴らしい作品である。
特に思い入れが深いのは、エルミタージュ美の「新婚の」サスキア版《フローラ》。
展覧会巡りを始めた頃に出会い、たいへん気に入って、展覧会の特大ポスターを購入。長く部屋に貼っていたが、老朽化が進んだため、引越しを機に処分した。
カッセル美の、これも「新婚の」《横顔のサスキア》は、「サスキアに逢える秋」というコピー効果か、当時話題を呼んだと思う。
カッセル美のレンブラントは相当充実しているよう。画集を見ていてもカッセル美の名前が頻繁に出てくる。
メトロポリタン美のヘンドリッキエ版《フローラ》は、展覧会のあの出品構成からして、よく来日してくれたものだと思う。
メトロポリタン美のヘンドリッキエ版《フローラ》は、展覧会のあの出品構成からして、よく来日してくれたものだと思う。
この2012-13年の来日(東京のみ、そのあと北京に巡回)は、1976年の東京・京都に引き続く、2回目の来日であった。
そして、2021-22年の「メトロポリタン美術館展」での出品は、3回目の来日ということとなる。再会を楽しみにしている。
サスキア・ファン・アイレンブルフ
1612年、法律家で市長、フラネケル大学の創設者の一人でもあった父親の八人兄弟の末娘として生まれる。
1634年、レンブラントと結婚。1635年に生まれた長男、1638年に生まれた長女、1640年に生まれた次女は、生後間もなく亡くなるが、1641年、次男ティトゥスが生まれる。
1642年、29歳で死去。死因は結核といわれている。
1632年制作の《テュルプ博士の解剖学講義》により高い評価を得たレンブラント。裕福な家の娘と結婚し、独立した工房を構え、注文も殺到と、富と名声を満喫していた時代の、エルミタージュ美・カッセル美の作品。
ヘンドリッキェ・ストッフェルス
1626年生まれ。1647年、レンブラント家に雇い入れられる。
1654年、娘コルネリアを未婚の母として出産。
1660年、レンブラントの息子ティトゥスと共同で美術商を経営する契約を結ぶ。
1663年、37歳で死去。
1642年の《夜警》完成とサスキアの死去以降、人生が反転したレンブラント。注文が激減。戦争勃発による経済不況の影響が大きいが、完璧を求める制作姿勢が敬遠されるようになったことや、画風が徐々に流行遅れとみなされるようになってきたこともある。一方で浪費癖はそのままで、経済的に困窮する。
ヘンドリッキェは、サスキアの遺産と、息子ティトゥスへの相続に関係した問題により、婚姻関係を結ぶことはなかったが、レンブラントを支える。そんな時代のメトロポリタン美の作品。
ヘンドリッキェをモデルにした作品でとりわけ印象深いのは、ルーヴル美の 《ダヴィデ王の手紙を持つバシテバ》 (1654年)である。
最初は作品の素晴らしさをに感嘆していただけであったが、その後、彼女の胸の外側にみとめられる明瞭な陥没が乳癌の症状をあらわしているという話を聞いて、そうとは知らずにレンブラントはきっちり描いたのか、と何とも辛い気持ちになる。