秋山聰
『聖遺物崇敬の心性史』
2018年10月刊(原本は2009年刊)
講談社学術文庫
1:聖なる人の遺体、遺骨、遺灰等
2:聖なる人が生前に身にまとったり、触れた事物
3:1ないし2の聖遺物に触れた事物
1をしのぐ重要性を持つとされたのが、キリストと聖母マリアの2にあたる事物。1が存在しないこととなっているためである。
ただし、爪・髪・乳歯・臍の緒や血液・汗・母乳などの体液は存在してもおかしくないと、その所有を主張する教会・修道院も多数あったらしい。
1の聖遺物については、完全な五体満足の遺体であっても、身体のごくごく一部分の遺骨であっても、聖遺物としての力としては同等とされたらしい。
昔のローマは、数多の殉教聖人の遺体の所有により、その優位性を確保していた。諸国からの聖遺物譲渡要請に対して、ローマでは墓に手をつけることや遺体を分割することは禁忌に触れるとして、1の譲渡を断り、専ら2の譲渡で対応したという。
その禁忌もやがて緩くなり、さらには聖遺物なくしては教会は聖別されない規定ができて、聖遺物に対する需要が格段に高まる。
キリスト教が定着すると、昔のような殉教は見られなくなり、聖遺物が新規に生まれにくくなる。身近に将来の聖人候補がいたら、遺体確保のチャンスを確かにするため、他土地への移住を妨害するのみならず、今のうちに遺体にしておこうとか、訳の分からない状況も生まれる。
聖遺物の入手方法としては、第一に「新たに発見する」であるが、都合よく自分の土地に聖人の遺体が発見されるという幸運などまずない。「譲渡してもらう」特別に強いコネがなければ、「購入する」または「盗む」となる。
「盗む」というと、犯罪行為のはずだが、本当に許されないのであれば聖遺物(聖人自体)が抵抗するはず、成功するということは聖遺物(聖人)がそれまでの環境に満足しておらず移転を望んだのだ、という理屈で、盗んだ側は正当化する。盗まれた側がそれで納得するはずはない。
「購入する」というと、需要の拡大に応じて供給も拡大するのはともかく、その事物自体の正統性や事物の仕入れ方法の正当性を販売者はどう証したのか、購入者はどう信じたのか、実に不思議である。
そんな不思議な聖遺物が相応に流通するようになると、質よりも量で勝負する動きも一般的になる。
見た目は、ごくありふれた遺骨のごくごく一部分、あるいは単なる塵。それらがありがたき事物だと人々に訴えるため、聖遺物容器が発展する。その容器の形状・装飾でどの聖人のどの部分であるかを示す、金銀宝石での飾り立てでそのありがたさを示す、そういう発展の仕方をする。そのうち聖遺物容器自体が聖遺物になることもある。聖遺物の入手も大変な費用を要するが、聖遺物容器の制作も大変な費用を要する。教会の建築費用より高くつくこともあったらしい。
そのような聖遺物は、教会芸術の造形にも大きな影響を与える。自分のところの聖遺物の優位を誇示し、住民を満足させるとともに、巡礼者を呼び込みたい。多数を捌けるように、教会の建築地、動線を重視した建築様式、聖遺物の映える見せ方、教会装飾や祭壇。聖遺物が教会芸術のありようを決めたとすら思わせられる。
以上、本書の一部であるが、聖遺物崇敬の興味深い話がたくさん。読みやすいし、読み応えがある魅力的な書籍だと思う。