※「神子屋教育の礎」※
■流産児・・・水子。自然に流れる場合を自然流産児、堕胎中絶によって殺められる場合を人工流産児と言う。
私はこの世に生まれ出ることの出来なかった流産児のためにずっと祈りを捧げていました。特に、中絶児に関しては親の代表として懺悔の心で供養をしています。
私自身には流産児はおりませんが、何故だか私は流産児たちの思いを強く感じ、何かしらの深いご縁を思うのです。
彼らの思いは、社会の中の様々な現象的な問題や出来事に象徴されます。
しかし、どんな現象であろうとも、それらは『愛』の現れなのだと私には思えます。
何故なら彼らは『生命の大切さ・尊さ・生き通しの世界』を、こちらの世界に生きる私たちに教えるため伝えるためのメッセンジャーであって、一所懸命目には見えない世界で働いておられるのだと、私は感じるからです。
流産児問題は、この世界が展開していくための、そして全人類の魂の目覚めのための、重要な『鍵』だと私は思っています。
このような私に起きた、今回のみみかの登校拒否の現象も、この流産児たちの働きによるものだと私は感じています。
2月初め、私は一連のみみかの不登校・登校拒否の元々の発端は、流産児たちの訴えの表現であることを、一瞬すっかり忘れかけていました。
母子登下校をすることで、みみかを通し目に見えない生命たちが喜んでいることを感じていた私は、それら子供たちのためもあって、学校での時間を彼女と過ごすことに納得していたのです。(もちろん、彼女自身がそれを望んでいたためでもあります)
しかし、変則的な登校自体が、私の中で「当たり前」の普通になってしまっていたからでしょう、「学校教育」と「家庭教育」や「学校/学級復帰」など、目の前の現象にいつしか問題意識がすりかわっておりました。
初心に返り、何故彼女が学校に行きたくない!と拒否する姿を現しているのか・・、そこに還る機会を私は与えられました。
分かったのは、やはり『生命』に対する姿勢、目には見えないもの(生命・霊・愛・光)を敬い尊重する姿勢を常に持つことでした。
肉食のことももちろん大事ですが、まずは同じ人類であり生命の象徴の最たる存在“流産児”たちを認め、愛する(供養する)ことです。
教育は「愛」です。最も弱き者たちへの慈しみの心こそ、教育の根底にあるべきだと思います。
「学校」と「家庭」が繋がり、社会全体が大きな教育という場になることを目指すには、やはり『生命の教育』が双方で為されるべきなのだと私は強く思います。
そのために、現にみみかは今もなお、学校へ行けないという自分の表現を通し、私たちにそのメッセージを送り続けてくれていると思うのです。
彼女が喜んで学校に行けるためには、流産児たちが喜ぶことであり、それはその存在を認められ愛されることなのです。
「生命の教育」が学校で為される時、みみかの意識は喜んで学校に向かうものと考えられます。
(2007/06/02掲載文)
■流産児・・・水子。自然に流れる場合を自然流産児、堕胎中絶によって殺められる場合を人工流産児と言う。
私はこの世に生まれ出ることの出来なかった流産児のためにずっと祈りを捧げていました。特に、中絶児に関しては親の代表として懺悔の心で供養をしています。
私自身には流産児はおりませんが、何故だか私は流産児たちの思いを強く感じ、何かしらの深いご縁を思うのです。
彼らの思いは、社会の中の様々な現象的な問題や出来事に象徴されます。
しかし、どんな現象であろうとも、それらは『愛』の現れなのだと私には思えます。
何故なら彼らは『生命の大切さ・尊さ・生き通しの世界』を、こちらの世界に生きる私たちに教えるため伝えるためのメッセンジャーであって、一所懸命目には見えない世界で働いておられるのだと、私は感じるからです。
流産児問題は、この世界が展開していくための、そして全人類の魂の目覚めのための、重要な『鍵』だと私は思っています。
このような私に起きた、今回のみみかの登校拒否の現象も、この流産児たちの働きによるものだと私は感じています。
2月初め、私は一連のみみかの不登校・登校拒否の元々の発端は、流産児たちの訴えの表現であることを、一瞬すっかり忘れかけていました。
母子登下校をすることで、みみかを通し目に見えない生命たちが喜んでいることを感じていた私は、それら子供たちのためもあって、学校での時間を彼女と過ごすことに納得していたのです。(もちろん、彼女自身がそれを望んでいたためでもあります)
しかし、変則的な登校自体が、私の中で「当たり前」の普通になってしまっていたからでしょう、「学校教育」と「家庭教育」や「学校/学級復帰」など、目の前の現象にいつしか問題意識がすりかわっておりました。
初心に返り、何故彼女が学校に行きたくない!と拒否する姿を現しているのか・・、そこに還る機会を私は与えられました。
分かったのは、やはり『生命』に対する姿勢、目には見えないもの(生命・霊・愛・光)を敬い尊重する姿勢を常に持つことでした。
肉食のことももちろん大事ですが、まずは同じ人類であり生命の象徴の最たる存在“流産児”たちを認め、愛する(供養する)ことです。
教育は「愛」です。最も弱き者たちへの慈しみの心こそ、教育の根底にあるべきだと思います。
「学校」と「家庭」が繋がり、社会全体が大きな教育という場になることを目指すには、やはり『生命の教育』が双方で為されるべきなのだと私は強く思います。
そのために、現にみみかは今もなお、学校へ行けないという自分の表現を通し、私たちにそのメッセージを送り続けてくれていると思うのです。
彼女が喜んで学校に行けるためには、流産児たちが喜ぶことであり、それはその存在を認められ愛されることなのです。
「生命の教育」が学校で為される時、みみかの意識は喜んで学校に向かうものと考えられます。
(2007/06/02掲載文)