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神子屋教育🇯🇵(かみこやきょういく)

我が家流/みみかとママの「おうち」教育

不殺生菜食者 2

2006年12月21日 | 不殺生菜食者
私の育った家庭は、どちらかと言えば食というもの(特に肉食)には、全く関心のない家でした。
ですから、私は子供のころからハンバーグが大好きでした。
しかし、の際の動物たちの涙を知る大人になった私は、肉食すると体に反応が出て戻してしまうようになり、自分の魂が肉食することを体を使って拒否しているのだと感じるようになりました。
その頃から、私は肉食を段々と減らすようになり、ハンバーグで言うなら使用するお肉を、牛から豚へ豚から鶏へと変え、量もなるべく少量にして豆腐ハンバーグへと移行して来ました。
そして、肉食をする際は必ず感謝の思いを添えて頂くようになりました。
すると、体の拒否反応は出なくなっていました。

しかし、この頃の私はまだ、『殺生・不殺生』『生命』などについて思いを深く巡らせていたわけではありません。
「当たり前」のように食していた動物たちが、実は涙を流していたのだと。
涙を流しながら、私たち人間のために犠牲になり、自分の体の肉を捧げてくれているのだと。
『なんと可哀相なことだろう!ああ、ゴメンナサイ!そんな思いをさせていたなんて!なんの懺悔もそして感謝の気持ちも抱かずに、ただ「当たり前」に食していた私を許して下さい。これからは、なるべく食することをやめ、食する際は必ず感謝を捧げます。』
・・と、こんな感じで私の「不殺生菜食」への道は始まり続いていたのでした。

『不殺生』については肉食をしないということもさることながら、私は虫を殺さないということも心がけています。
『不殺生』を決意する以前の私は、アリや蚊などが自分の目に映ればすぐに、何も考えることなく反射的にブチッと潰したりバチンとやっつけたりしていました。
それまでの私にとって、それらの生命は明らかに自分を害する殺すべき『敵』だったのです。
生まれた時からそういったことを疑いもせず、それが「当たり前」で過ごしてきたのですから無理もありません・・。
それに、振り返ってみると自分自身が実際『不殺生』を実践するまで、ベジタリアンや人間にとって害虫であるはずの虫の命を守る行動などに対し、心の中では距離を置きどこか冷めた目で見ていた私がいたようにも思います。

正直、「不殺生菜食」も害虫たちを殺さないことも、実際に始めるまでは『栄養面では大丈夫だろうか?』『蚊や蜂の攻撃やアリやクモの侵入を、ただ受けとめることなんて本当に出来るだろうか?』こういった思いを含め、『億劫だな、面倒だな、不安だな』などと私は思っていました。
しかし、全ては繋がっている命・・生命礼拝・生命尊重・・その思いは強く、『全ての命あるものとの調和』を心に描き、『生命礼拝・生命尊重』を実践し始めました。

「不殺生菜食者」になって一年が経った今、健康面でも何も問題はありません。
むしろ、小さい頃から体が弱いと親から刷り込まれ、虚弱な体だと思い込んでいた私の先入観と体から、ある意味「毒素」と言う形でそれらは浄化され体は清まったように思えます。
みみかとの母子登校で、急な坂道が続く学校までの道のりを、歩いたり自転車で疾走したりの毎日でも、私はすこぶる元気でいるのです。

肉食することが「悪いこと」とは、私は思っていません。
今、目の前に見える全てのものは、必要があるからこそ現れているのであって、否定すべき批判すべきものとは限らないのだと、私は考えています。
ハンバーグが大好きだった私が、不殺生菜食者になるために歩んできた行程を振り返るとき、その時その時に応じたステップがあるように思えるのです。
何も知らず、知らされる機会もなく、涙を流す動物たちの肉をただ「当たり前」的に食していた段階から、頂く生命(いのち)に対して心から感謝を捧げるという段階があり、やがては自己の内に繋がる全ての生命を感じ、自ずと導かれ調和した世界を描こうとする意識の持ち主になって行くのだと・・・。
あくまでも、その個人の魂が自然にそうに導かれたとき、あるべき形になるのだと思うのです。

『全ての命あるものとの調和した世界』・・・想像(創造)してみて下さい、素晴らしい世界だと思いませんか?
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