ママです。
この3日間は、1・2時間目のいずれかに登校し給食を食べ、最後の時間割まで学校にいることがほとんどでした。
そのため、私は自分の昼食の用意をしていかなければなりません。
画像は今日の持込お弁当です。
<中身は、前日のチャーハンの残りと白米&玄米半々ブレンドご飯に、自家製梅干にしいたけ昆布の佃煮を乗せ、ニンジン&キュウリのスパサラと里芋&こんにゃく&しいたけ&レンコン&うす揚げのサイコロ煮物です>
我が家では牛・豚・鶏・魚介類・タマゴを食べない「不殺生菜食」をしており、私は「不殺生菜食者」です。
だしやルーなども動物性が入っているものは一切使いません。
みみかには強制してはいませんが、家庭で食べるものは必然的に「不殺生菜食」となります。
学校給食もいっそのこと、お弁当を持たせようかとも思いましたが、みみか自身が私の姿勢を見て、自然と肉食をやめたくなった時、その時に給食をどうするべきか考えようと思っています。
ただ、給食でお肉やお魚が出たときには、みみかのために生命(いのち)を下さるのだから、必ず「頂きます、ありがとう」と心の中で言ってね、と話しています。
好き嫌いの全くないみみかですが、最近はお肉は自分から食べなくなって来ています。
私がこの「不殺生菜食」に取り組み始めたのが、ちょうど一年前です。
・・・いつも祈っていました。
私たちが住むこの日本を始め、地球上に溢れるさまざまな悲しいと見える出来事に、そして、この世が調和した平和な世界になるために、「今、私に出来ることは一体何なのか?」と・・・。
特に、(子供たちの)生命に関わる悲しい事件事故が起きるたび、私はこの世に生まれて来られなかった子供たち(堕胎中絶/自然 流産児)の思いと、それらの事柄が何らかの形でリンクしているように感じられて仕方が無く、以前からずっとそれらの生命(いのち)に対して、愛と感謝と懺悔の気持ちでひたすら祈り続けていました。
そんな折、ある事件が私の心に衝撃をもたらしました。
奈良県で起きた、小学一年生の少女が犠牲になったあの事件です。
そして、その一年後には立て続けに同じ学年の子供たちの生命(いのち)が奪われ失われて行きました。
どうにも言葉に出来ない悲痛な思いが私の全身を貫きました。
その時、何ものかの強烈な思いが、私の奥底で私自身の心に働きかけました。
“生命(いのち)を守りたい!”と強く強くその思いは、私の心の中に働きかけてきました。
それまでも、される瞬間に牛も豚も涙を流すと聞き、徐々に肉食を減らしてきてはいましたが、そんな胸中の私に、ある友人の一言が私に「不殺生」を決意させました。
それは、「目の前に来たからと言って、食糧として殺された自分の子供の屍肉を食らう母親はいない!」という言葉でした。
それは『ストン!』と私の心の中に入り込み、「そうだ、本当にそうだ!全ては同じ神様の生命。感謝すればそれでいい、そう思っていた私の心は間違っていた!」と、私の奥深くの何ものかを、その言葉は激しく突き動かしたのでした。
変な言い方ですが、頂く生命に対し感謝を捧げることで、それまで私の心は折り合いを付けてきたように思います。
“生命(いのち)を守りたい!”そう強く思わせる、私の奥底にある何ものかとは・・?
それは、『母性』です。
全ての生命の母であると思える女性特有の『母性』が、女性である私には宿っています。
友人のその言葉は、私のこの『母性』を大きく揺るがしました。
「目の前に出されたもの、与えられたものを感謝して食せばいい・・」そんな風に私はもう思えなくなっていました。
【全ての生命は繋がっている!人間の生命だけの問題ではない!もうこれ以上、生命を殺すこと・奪うことを私はやめよう!】
私はそう決意し、「不殺生菜食者」となったのです。
>>>つづく
この3日間は、1・2時間目のいずれかに登校し給食を食べ、最後の時間割まで学校にいることがほとんどでした。
そのため、私は自分の昼食の用意をしていかなければなりません。
画像は今日の持込お弁当です。
<中身は、前日のチャーハンの残りと白米&玄米半々ブレンドご飯に、自家製梅干にしいたけ昆布の佃煮を乗せ、ニンジン&キュウリのスパサラと里芋&こんにゃく&しいたけ&レンコン&うす揚げのサイコロ煮物です>
我が家では牛・豚・鶏・魚介類・タマゴを食べない「不殺生菜食」をしており、私は「不殺生菜食者」です。
だしやルーなども動物性が入っているものは一切使いません。
みみかには強制してはいませんが、家庭で食べるものは必然的に「不殺生菜食」となります。
学校給食もいっそのこと、お弁当を持たせようかとも思いましたが、みみか自身が私の姿勢を見て、自然と肉食をやめたくなった時、その時に給食をどうするべきか考えようと思っています。
ただ、給食でお肉やお魚が出たときには、みみかのために生命(いのち)を下さるのだから、必ず「頂きます、ありがとう」と心の中で言ってね、と話しています。
好き嫌いの全くないみみかですが、最近はお肉は自分から食べなくなって来ています。
私がこの「不殺生菜食」に取り組み始めたのが、ちょうど一年前です。
・・・いつも祈っていました。
私たちが住むこの日本を始め、地球上に溢れるさまざまな悲しいと見える出来事に、そして、この世が調和した平和な世界になるために、「今、私に出来ることは一体何なのか?」と・・・。
特に、(子供たちの)生命に関わる悲しい事件事故が起きるたび、私はこの世に生まれて来られなかった子供たち(堕胎中絶/自然 流産児)の思いと、それらの事柄が何らかの形でリンクしているように感じられて仕方が無く、以前からずっとそれらの生命(いのち)に対して、愛と感謝と懺悔の気持ちでひたすら祈り続けていました。
そんな折、ある事件が私の心に衝撃をもたらしました。
奈良県で起きた、小学一年生の少女が犠牲になったあの事件です。
そして、その一年後には立て続けに同じ学年の子供たちの生命(いのち)が奪われ失われて行きました。
どうにも言葉に出来ない悲痛な思いが私の全身を貫きました。
その時、何ものかの強烈な思いが、私の奥底で私自身の心に働きかけました。
“生命(いのち)を守りたい!”と強く強くその思いは、私の心の中に働きかけてきました。
それまでも、される瞬間に牛も豚も涙を流すと聞き、徐々に肉食を減らしてきてはいましたが、そんな胸中の私に、ある友人の一言が私に「不殺生」を決意させました。
それは、「目の前に来たからと言って、食糧として殺された自分の子供の屍肉を食らう母親はいない!」という言葉でした。
それは『ストン!』と私の心の中に入り込み、「そうだ、本当にそうだ!全ては同じ神様の生命。感謝すればそれでいい、そう思っていた私の心は間違っていた!」と、私の奥深くの何ものかを、その言葉は激しく突き動かしたのでした。
変な言い方ですが、頂く生命に対し感謝を捧げることで、それまで私の心は折り合いを付けてきたように思います。
“生命(いのち)を守りたい!”そう強く思わせる、私の奥底にある何ものかとは・・?
それは、『母性』です。
全ての生命の母であると思える女性特有の『母性』が、女性である私には宿っています。
友人のその言葉は、私のこの『母性』を大きく揺るがしました。
「目の前に出されたもの、与えられたものを感謝して食せばいい・・」そんな風に私はもう思えなくなっていました。
【全ての生命は繋がっている!人間の生命だけの問題ではない!もうこれ以上、生命を殺すこと・奪うことを私はやめよう!】
私はそう決意し、「不殺生菜食者」となったのです。
>>>つづく