神奈川絵美の「えみごのみ」

明治の名手(ファンタジスタ) -宮川香山展 その2-

熊本および周辺地域の大地震にたいへん胸を痛めています。
友人や知人が無事であることは確認できましたが、
私も何度か、仕事で訪れたことがある地。
ここ数日は、ブログを更新する気持ちになれませんでした。
これから自分にできることを、行動に移していきたいと思っています。

途中になってしまった工芸展レポート、続きを書きますね。

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(前回の続き)

1800年代終盤、
フランスを中心に欧州で脚光を浴びた「日本の美」。
その流れにのって、
宮川香山の、和の題材をふんだんに盛り込んだ
豪華な高浮彫は人気を博し…というところまで
書きました。

でも

1900年開催のパリ万博では、
もう、ジャポニズムの人気に翳りが……。

代わって流行の担い手になったのが
草花や昆虫などのモチーフとうねりある装飾性が特徴の
アールヌーヴォー。

さて、宮川香山はどうしたか、というと…

高浮彫はもともとコスト高で採算がとれないという
現実的な事情もあり、
アールヌーヴォーを日本の伝統工芸に
うまく取り入れた新しい作風を発表。
   ↓
これが再び国内外で評価され 「ニホン、スバラシイネー」ということに。
サントリー美術館には、Rコペンハーゲン社が香山の作風を
取り入れた…?とされる作品も展示されていました。

つまり、宮川香山は常に、
外需に対応してきた人であり、
“国を背負って”日本工芸の素晴らしさを
海外に発信しつづけた人、…と、私は理解しているのです。
(もちろん、国内でも人気はありましたが)

晩年、香山はこのように語っています。
「(真葛焼は)輸出向けからスタートしたが
決して外国におもねず、日本独自のものを
つくればよい」

筆で描くこと、日本の質の良い材料を使うこと etc.

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さて、工芸史の一つのターニングポイントとなった
1900年~、
アールヌーヴォーを熱心に研究した
もう一人の陶芸家に目を向けてみましょう。


左が宮川香山、右が板谷波山。
ちなみに1900年当時、宮川香山は58歳。板谷波山は28歳。

波山は以前にも書きましたが、
茨城県の旧家に生まれ、茶湯や俳句に親しむ環境で
育ちました。

同じアールヌーヴォーの洗礼を受けたといっても、
陶器の製造業の家に生まれた香山とは
バックグラウンドがぜんぜん違うんですね。
波山は、夏目漱石や泉鏡花、与謝野晶子などの文芸畑の人たちとも
親交が深く、彼らの影響を受けており、
一口に「陶芸」の括りでは語れない、文学も含めた大きな日本文化の
潮流-生命主義-の中で、独自のスタイルを確立させました。

生命主義(生命礼賛)とは
社会通念・規範よりも、人間の持つ自然な感情と生理を重視する思想。
明治~大正~昭和初期の、封建的な社会に反旗を翻すようなものですから、
そりゃもうセンセーショナル。

香山と波山の作品をいくつか、並べてみてみましょう。


左が香山、右が波山(以下も同じです)。
香山が好むモチーフは日本の昔ながらの花。杜若とか梅とか。
対して波山が好んだのは新種の花。アマリリスとかチューリップとか
更紗っぽい架空の花とか。


紫陽花は日本に古くからある花で、万葉集の時代には
人気があったようですが、その後低迷。
再評価されたのは明治時代に入ってからでした。

香山の作品には「見せ場」があります。
葉脈のインパクトとか、顎にもアクセントが。
対して波山の作品は、花全体の美しさ、咲くエネルギーを
あらわすものが多いです。
(生命主義ですから!)


これは香山の作品ですが、
このように、後期の香山は
前期のような立体的な装飾性は影を潜め
造形よりは色彩-美しさを際立たせる釉薬や釉下彩の研究に励みます。
ダイナミズムは前期にはかないませんが、
巧みに「見せ場」をつくり、再び海外の評価を高めたといわれています。


対して波山は、
メリハリがないわけでは決してないのですが、
私が観ている限りでは、モチーフとする草花の
存在、生命そのものを表現することに尽力していたような。
光をまとうような「ほ光彩」(ほはくさかんむりに保)も
その過程で生み出された独自の技法のひとつ。

もう一度、お二方の肖像を

宮川香山は毒舌家で厳格な一方、
地方から出てきた舎弟には神か仏かと言われるほど
面倒見が良かったとか。
板谷波山は、私の知識ではお人柄はあまりわからないのですが、
高い教養の持ち主と図録にありました。写真はどれも優しいお顔立ち。

宮川香山は国益のために、
海外の流行なども取り入れ作風を変化させていきましたが、
板谷波山は思想のために
生涯、自分のスタイルを変えませんでした。
人間国宝の声がかかっても、自分は伝統工芸の継承者ではない、と
辞退したと伝えられています。

同じ、1900年~ アールヌーヴォーを切り口にしても
これだけ、違いがあるのです。
ステレオタイプで理解したつもりになってはいけないな、と
思い知らされます。

そして1908年には、民藝の担い手の一人である
若き富本憲吉が英国に旅立ち、
翌年には逆に、英国から、
アーツ・アンド・クラフツ運動の重要人物の一人、
バーナード・リーチが来日しています。

アールヌーヴォー全盛の時代に
すでに「用の美」の思想は芽生えていた、というわけですね。

工芸史一つとっても、
◯◯時代、と学生時代のお勉強みたいに紋切型で見てしまうのではなく
時代の移ろうさまにも思いを寄せれば、
歴史上の登場人物がにわかに活き活きと、交流を始めます。
そこで得られるちょっとした気づきが、視野を広げてくれたり
思考を深めてくれたり、ときには
物事をおおらかに受容できるようにしてくれることを
私はここ数年、美術/工芸展鑑賞の何よりの愉しみにしています。


※板谷波山のより詳しいレポはこちらの過去記事をご参照ください。
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