宮川香山展。
会期終盤にようやく対面できました。
まずはこのポスター。
日光東照宮の眠り猫を題材にした花瓶や香炉は
外国に大受けで、たくさん創られたそう。
よく見ると、耳のところ、血管が透けている様まで忠実に。
宮川香山(1842~1916)はもともと京都で
仁清の写しを創るなど修行を積み、明治元年に虫明(岡山の一地方)、
そして明治3年には横浜で窯を開く。
ときはいうまでもなく、文明開化。
国としてはイケイケで、国益になるような工芸品の輸出に
力を入れる。
海外に特に好まれたのは…
薩摩の金襴手。
こういう作風です。
↓
金がふんだんに使われているものがもてはやされ、
ならばもう、どんどん金ピカのものを創っちゃいましょうと明治政府。
しかし、宮川香山は考えた。
金をそんなに海外に出しては、
資源が枯渇して却って国益を損なうじゃん?
そこで、
金を使わずとも豪華で見栄えの良い作陶を考えた-それが高浮彫。
ファンタジック!
中には、洞穴のように深いくぼみを胴につくり、
その中に細工を施すという手のこんだものも。
これは一例で、もっと立体的なものはたくさんありました。
ちなみに、岡山から横浜に移住したのは
おそらく港があったから(輸出しやすい)と思われますが、
一方で、「関東には良い土がない!」と宮川は嘆いていたとも。
寝食忘れ、山中を彷徨ったという逸話も
イヤホンガイドで聴きました。
一方、海外の流れはといえば
19世紀末はジャポニズム全盛期。
宮川より約30年、早く生まれた柴田是真は
1873年のウィーン万博へ漆の富士山を出品し、喝采を浴びた。
宮川も1878年、明治11年のパリ万博で注目の的に。
まあだいたい、1870年-1900年ごろまでは、
ジャポニズム旋風が欧州中心に巻き起こっていたわけですね。
このような経緯で
宮川香山の高浮彫も、「ザ・ジャパンメイド」として
売れに売れたそう。
しかし、高浮彫の欠点は、何と言っても手間がかかること
(彫刻付きですから当然ですよね)。
花瓶1つつくるのに、半年から6年もかかったそうで、
さらに宮川は出来栄えにたいへん厳しく、気に入らなければ躊躇なく
割ってしまったりして。
海外にもてはやされているときには、
日本でも類をみないほどの大所帯(20人)だった窯も
採算がとれず、見直しを余儀なくされることに……
宮川作品はすべて、制作年が明確でなく「明治時代前期」「後期」と
いった表示しかないのですが、おそらく1890~1900年ごろ?
…というのは、
そのころから欧州では、アールヌーヴォーが流行り出して、
ジャポニズムはだんだん、人気がなくなっていったから……。
でも、宮川香山の作品は、
ちゃんとアールヌーヴォーの道筋をつけていて
例えば
蓮の葉に蛙がいる作品などは
私はすぐ、ドーム兄弟の作風が想起されましたが
いかがでしょうか。
ドーム兄弟の作品の一例。
ただ、宮川作品もひところのような人気はなくなり、
窯も採算がとれず……で、
高浮彫はもう、厳しいよね、ということで
後期の宮川香山はおもに釉薬の研究に励み
新たなスタイルを生み出していったのでした。
例えばこんな。
何となくこちらに雰囲気が似ていると思いませんか?
宮川香山に遅れること30年、
板谷波山の作品。
波山といえば、ブリス(幸)の陶芸、官能美、生命主義。
そして、宮川が陶芸としては2人目の帝室技芸員(今の人間国宝)
になったのに対し、波山は人間国宝の指定を辞退している。
長くなってしまったので、
両者の作風の相違点については、次回書きますね。
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