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僕のおばあちゃんはいかにも京女らしい古風な人で、昭和50年代になっても日本髪を結って和服を着ていたし、物の考え方もかなり封建的だった。男と女をまるで別の生き物のごとく区別して考える。また「家」とか「血筋」といったことをやたら重視した。おかげで僕は「この子は我が家の後継ぎやから大事にしとかんと」ということで、他の孫よりも特別に可愛がってもらった。
妹は「そのうちよそへ行く子」ということで冷たいあしらい。僕ばかりが可愛がられ、妹は今もおばあちゃんのことが大嫌いだ。
僕がインスタントラーメンを作っていると、「男はんが水屋(台所)へ入ったらあきまへん!」と怒られた。「ラーメンくらい自分で作りなさい」と言った母も一緒に怒られた。食事の作法にもうるさくて、まず最初におかずだけ食べる、ご飯は最後に漬物で食べるという、まるで宴会の席のような食べ方を教える。ご飯とおかずを一緒に食べたり、天ぷらにソースをかけたりする大阪人の母は「下品だ」と虐げられていた。その頃はよく分からなかったが、我が家の嫁姑関係はかなり難しいものだったのだろう。
ちなみに、おばあちゃんの教育の成果あって、僕は今でもご飯は最後に食べる癖がついている。ご飯の上におかずを乗せて食べるなんてことはしない。ご飯だけ単独で食べるのでコメの味にはけっこううるさい。
おばあちゃんは火鉢の上でいろんなものを焼いて食べるのが好きだった。干し芋とかスルメとか、いろんなものを焼くのだが、中でも酒粕をあぶって食べるのが大好きで、僕にもたくさん食べさせた。僕が風邪をひくと、アルコール成分がいっぱい残ったタマゴ酒を飲ませた。どうやら僕を酒飲みに育てたかったらしい。
おばあちゃんは若いころ芸妓をしていて、まだお座敷もそれほど経験がないうちに遊び人の若旦那に見初められて結婚した。その後9人の子供を産んだが、僕の父がその長男である。三味線が得意で、宮川町で若い舞妓さんや芸妓さんに稽古を付けていた。浄瑠璃だか義太夫だかの演奏にも参加していた。年取ってからもお花見シーズンになると、いろんな団体に呼ばれて毎日のように疎水の桜の下で三味線を弾く。僕もよく連れられて行った。
我が家には今も形見の三味線が3本ある。一応レッスンプロが使っていたものだから、たぶん良い物だと思うのだ。高く売れるんじゃないかと皮算用しつつ、おばあちゃんが化けて出てきたら嫌なので、なかなか手がつけられない。でも、三味線を売ったお金でギターを買うのなら、おばあちゃんも許してくれるんじゃないかと、ときどき甘い誘惑に駆られたりもしている。バンジョーなら三味線に似ているので、もっと良いかな。
僕のおじいちゃんは江戸時代から続く扇子屋の道楽旦那だった。「店主があくせく働いているような店では信用されへんがな」と勝手な理屈を言っては祇園で遊びまくり、結局店を潰してしまった。おばあちゃん以外にも何人かの女性がいて、そこにもまた子供がいる。二号さんや三号さんが出産するとき、おばあちゃんはご祝儀(慰謝料?)を持って手伝いに行ってたらしい。今ではとても考えられない話だ。
僕が生まれる前に亡くなっていたので、おじいちゃんとは会ったことないが、写真を見る限り、確かに遊び人らしい顔をしている。その反動か、僕の父やその弟である叔父さんたちは真面目な人ばかり。こういうのって隔世的に似るという話もあるが、どうなんでしょう? まあ、時代が違うので何とも言えないが、なんか、ちょっと憧れたりしてしまう。(笑)
さて、この写真は僕のお宮参りの様子。我が家の跡継ぎ誕生に、おばあちゃんは大喜びだったらしい。「私が産んだのに、写真を撮る役しかさせてもらえなかった」と、母は今も怒っている。僕が着せられている衣装もおばあちゃんが用意したもの。男児の額に「大」の字を書くのは京都だけの風習だろうか。ちなみに、女児の場合は「小」と書く。
自分で言うのもなんだが、なかなか賢そうな顔の赤ちゃんだ。(笑) 「末は博士か大臣か」とおばあちゃんは大いに期待を寄せていたらしい。現在僕がギター弾いて遊んでばかりいると知ったら、どんな顔をするだろう。
「これは私の血筋どす」と自慢するかもしれないな。いや、おばあちゃんの血筋なら、もう少し上手く弾かなければね。ということで、三味線売ってギター買ってもいいですか? おばあちゃん。
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