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思誠寮に入ってまっ先に驚いたのは、上級生が僕の部屋へタバコを貰いにやって来たことだ。噂にたがわぬオンボロ寮で、まさに貧乏学生の溜り場みたいなものだったから、僕としてもちょっとやそっとのことでは驚かなかったと思う。その先輩が所望したのは普通のタバコではなく、灰皿に残された吸い殻、いわゆるシケモクというやつだったのだ。
「やあ、こんばんわ。シケモクない?」彼は部屋に入るなり言った。僕は最初、彼の意とするところがよくわからなかった。それで仕方なしに、黙ったまま軽く会釈をした。
「おおっ! あるじゃん、あるじゃん」彼は折りたたみ式テーブルの上の灰皿に目を落し、まるで金の延べ棒でも発見したような声を出した。
「突然じゃまして悪かったね。きみがタバコを吸ってたって聞いたもんだからさ」彼はそう言いながら、灰皿の中から何本かの吸い殻をつまみ出し、灰を丁寧に払いのけてから、テーブルの上に順序正しく並べた。僕は返すべき言葉がうまく見つからず、黙ったまま先輩の作業を眺めていた。
「これ貰って行っていいかな?」彼はテーブルの上に並べられた十本ほどのシケモクを手で示した。
「べつにいいですけど、・・・でも、タバコだったらこれをどうぞ」僕はシャツのポケットからセブンスターのパッケージを取りだして、先輩に差し出した。
「えっ、いいのか? 悪いねえ」彼はたいそう喜んだ様子でパッケージを受け取り、ひどく貧乏臭い手付きで一本のタバコを取り出した。僕は自慢のジッポーで先輩のタバコに火をつけ、それから自分もタバコをくわえた。
「俺は〇〇って言うんだ。またよろしく頼むよ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」僕は新入生らしく、あらたまって挨拶をした。でも、〇〇先輩の「よろしく頼む」というのは、またシケモクをくれという意味だったのだと思う。
その後〇〇先輩とは親しくなったが、彼は定食屋へ入るとまだ食器が下げられてないテーブルに座り、前の客が残していったキャベツを食ったりラーメンの汁をすすったりした。一緒にいるだけでかなり恥ずかしい。
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寮生はみんな質素な生活をしていたが、その表情は妙に明るく、まるで貧乏生活を楽しんでいるといった感じだった。六畳の二人部屋、火災防止のためストーブは禁止され、電気コタツだけで信州の冬を越すという寒々しい生活。夜中に大鍋でインスタントラーメンを作り、大勢が寄ってたかって直接鍋に箸を突っ込んで食うという凄まじい食生活。
当時は生活様式の高級化が急速に進み、バス・トイレ・冷暖房完備のマンションで暮らす学生も少なくなかった。都会派の学生たちは「ポパイ」や「ホットドッグ・プレス」といった雑誌を愛読し、最新のファッションに身を包んで、おしゃれなレストランなんかに出入りするようになった。思誠寮生たちは、そうした贅沢を敵とみなし、学生社会にまで浸透し始めたプチ・ブルジョア的な生活スタイルを嫌った。
歴史から取り残された孤城を守り続けるがごとく、硬派寮生たちは古い寮歌を歌いながら一升瓶を回し飲みした。一方、軟派寮生はギターを弾いてフォークソングを歌ったり、「神田川」の歌詞みたいに洗面器を抱えて彼女と銭湯へ出掛けたりした。やっていることはずいぶん違うが、貧乏くさいという点では両者共通していたのである。
(続く)
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