「月の砂漠を はるばると 旅のらくだが 行きました」という童謡がある。子供の頃、と言ってもけっこう大きくなるまでのあいだ、僕はこの歌を月世界の風景を描いたものだと思っていた。砂漠のように荒れ果てた月面をラクダがゆっくりと歩いて行く。ラクダも、それに乗っている人も、酸素ボンベにつながった透明のマスクをかぶっている。金の鞍に銀の鞍、いかにもメタリックで近未来的ではないか。
家族での夕食時にその話をしたら、なんと息子もそれと同じようなイメージを描いていたという。なんだ、やっぱりそうか。そういうふうに考える人もけっこういるんだなと僕は少し安心したのだが、妻の見解は違った。
「それは絶対おかしいわよ。月の砂漠といえば、普通は月夜の砂漠を指すものよ。月面のクレーターみたいな場所を想像するなんて、百人に聞いてもあなたたち二人くらいのものだわ」
試しにその後何人かの人に聞いてみたが、月面の風景と答えた人は一人もいなかった。僕はそれまで息子に「月の砂漠」の話なんてしたことないから、それぞれが別々に同じような風景をイメージしていたのだろう。思考パターンが似ているということか。
確かに息子は物の考え方において僕に似たところがある。親子だからまあ当然なのかもしれないが、あまりにも変な部分で似ていることに気付くと、わが事ながら面白くもあり、時には怖くも感じる。
僕は空間把握能力が極度に低くて、方向とか左右の認識が曖昧だ。例えば商店街を歩いていて、どこかの店に入ると、店から出てきたときに、どちらから歩いてきたのか分からなくなってしまう。たぶんこちらだろうと思ってしばらく歩いた後、先に通り過ぎた店を見つけて、慌てて反対方向へ向きを変えることもしばしば。アルファベットの「E」とカタカナの「ヨ」が、どっちがどっちだか分からなくなってしまう。小文字の「e」を指で書いてみて、やっと「E」の向きを確認するという始末。
息子も子供の頃、鏡文字をよく書いていた。今でも僕と同じように、「E」の向きが分からなくなってしまうらしい。こうしたこともDNAの遺伝情報に刻み込まれているのだろうか。ある種の怖さを感じる。
さて、息子が大学生で家に居たときのことだ。家族でテレビのニュースを見ていると、どこかで起こった火事についてアナウンサーが「放火の疑いで捜査中です」と言った。それを聞いて僕と息子はまったく同時に「ほうか・・・」と言ってしまった。これは怖いというよりも、かなり恥ずかしい出来事だ。まあ僕の場合は文字通りオヤジなのだからオヤジギャグでも仕方ないが、二十歳やそこらの青年がこんなことでは困るぞ。
それから後のある日のこと、また家族でテレビを見ていると、冬山で登山者が遭難したというニュースが流れた。僕はとっさに「そうなん?」と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。また息子とダブってしまってはいけないと思ったのだ。息子もそのときは何も言わなかった。彼も僕と同じように自重したのか、あるいは今回は思いつかなかったのか、その真相は定かではない。
ところでこの息子、困ったことに外見も僕に似ている。そういうのが身近にいると、まるで自分の人生の繰り返しを見ているようで複雑な気持ちになってくる。今は東京の会社に勤務しているが、三十を過ぎてまだ独身。彼女もいる気配がない。このあたりは僕とだいぶ違っている。僕は大学生の頃に婚約し、社会人になってすぐに結婚、今の息子の歳にはもう子供が小学生だった。大事なところが似てないので、僕はなかなか孫の顔を拝むことができない。
娘も三十歳でまだ独身。このままでは我が家の血筋が途絶えてしまうよ。若いおじいちゃんになりたかったのだが、その夢は叶いそうにない。せめて僕が元気なうちに、孫の顔を見せてほしい。
孫が生まれて小学生くらいになったら、「月の砂漠」の歌を聴かせて、どのような風景を想像するか確かめてみたいと思っているのだ。「月面のクレーター」と言ったらどう感じるだろう。ちょっと怖いようであり、嬉しいようでもある。
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