昨日書いた “Call”は「神から呼ばれている」ということで
自分がお役目を選び取ったという感覚よりも
そのように「お呼びがかかった」という、
自分の感情を超えた感覚として、その人に感じられるもののようだ。
沖縄のS先生の場合は、ダイレクトにメッセージとして、お呼びがかかった例だろう。
そういう感覚を伴って、自分の人生のプログラムに気が付く人
がこの世の中にはいるんだと、昨日の牧師先生の話を伺って
自分のなかにその事例が一つ加わった。
* * *
牧師夫妻には、「人間関係を円滑にするために、どのようなことが
一番大切と思われますか?」と伺った。
そこで自らも牧師でらっしゃる奥様が言われたのは
「人間は皆、不完全です。自分も不完全、人も不完全。
その不完全であることを忍び合っていくことでは
ないでしょうか」
だった。
「忍ぶ」とは「耐えること」と辞書にある。
耐えるという言葉よりも、なにか情感として深みがある気がする。
言い換えれば、互いに至らないところを認め合い、
受け止めようということだと思う。
その話を伺った日に、早速その練習課題が出てきた。
普通なら、自分の非を責め、また人に対しても「それはないだろう?」と
非を責めることができるような状況だった。
そこで早速、学んだことを適用してみた。
わたしもあなたも不完全。相沢みつを氏の「人間だから」の
メッセージと同じだ。
そう思うと、心が穏やかなままでいられるなと感じた。
自分がお役目を選び取ったという感覚よりも
そのように「お呼びがかかった」という、
自分の感情を超えた感覚として、その人に感じられるもののようだ。
沖縄のS先生の場合は、ダイレクトにメッセージとして、お呼びがかかった例だろう。
そういう感覚を伴って、自分の人生のプログラムに気が付く人
がこの世の中にはいるんだと、昨日の牧師先生の話を伺って
自分のなかにその事例が一つ加わった。
* * *
牧師夫妻には、「人間関係を円滑にするために、どのようなことが
一番大切と思われますか?」と伺った。
そこで自らも牧師でらっしゃる奥様が言われたのは
「人間は皆、不完全です。自分も不完全、人も不完全。
その不完全であることを忍び合っていくことでは
ないでしょうか」
だった。
「忍ぶ」とは「耐えること」と辞書にある。
耐えるという言葉よりも、なにか情感として深みがある気がする。
言い換えれば、互いに至らないところを認め合い、
受け止めようということだと思う。
その話を伺った日に、早速その練習課題が出てきた。
普通なら、自分の非を責め、また人に対しても「それはないだろう?」と
非を責めることができるような状況だった。
そこで早速、学んだことを適用してみた。
わたしもあなたも不完全。相沢みつを氏の「人間だから」の
メッセージと同じだ。
そう思うと、心が穏やかなままでいられるなと感じた。
昨日、愛のない自分の行為から来た報いを受けた後なので、とても身につまされる思いでメッセージを読みました。
最後のカエルちゃんと、ニワトリちゃん(?)に励ましをいただいた気持ちです。
愛し愛(愛し合い)
支え愛(支え合い)
助け愛(助け合い)
許し愛(許し合い)
だと思います。人間は完璧ではなく、それぞれが
違う運命の道を歩いている。
批判しがちな人はYESかNOのどちらかを選択しますが、どちらも正しい場合もあり、尊重しあう事も
必要だと思います。相手に自分の思い通りの答えを求めるのは執着心から来ている場合もありますしね。
大雑把な書き方をしていますが、簡潔に書いてみました。