ナイスミドル女のひとり言

老婆は一日にしてならず、日々感謝します 

スーちゃん

2011-04-22 22:49:21 | なみだ
キャンディーズのスーちゃん
むかし、その位置にいた
女優、田中好子さんの訃報

キャンディーズは、少しお姉さん世代です
わたしが小学校高学年のころにデビュー
たしか、はじめのころは
子ども心にも、パッとしないなぁと思う女の子グループでした
お兄さん世代のひと達は夢中で…(^ー^)
『年下の男の子』のヒットで、わたしたち女子が
いわゆる『フリ』を真似して歌うようになったなかなぁ
当時はカラオケなどないから、コーラスの入る歌は
みんなで歌うのに楽しい作品だったと思います

『やさしい悪魔』
キャンディーズの歌のなかで
これが一番すきかな…
吉田拓郎さんの作品
『我が良き友よ』の恋愛版女の子バージョン
と、表したい

憧れと妬みと…愛憎表裏一体の気持ち
「普通の女の子に戻りたい」???
今ドキの言い方をするなら

チョームカツクンダケド


普通の子が欲しくても手に入れることのできない
名声、お金を手に入れ
おいしいものを食べて
綺麗な服をきてプロにメイクしてもらって…
で、芸能界で売れたら
普通の女の子に戻りたい?????

そんな思いで見ていたなぁ

そして、女優として活動し始めたスーちゃんとランちゃんに
ほれ見ろ~なあにが普通に戻りたい、ぢゃ
結局華やかな世界から
離れられないくせに
ってね
まさに羨望と嫉妬です

自分も齡を重ねると、わかってくる
すきなことを仕事にすることが
いかにたいへんなことか

田中好子さんの
魅力のひとつである
くるくるとした大きな瞳
とても印象的なすてきな女優さんでした

天国では
いかりや長介さん
荒井注さんが迎えてくださるでしょう
かわいらしいコント、また演じてください


1995 0117 やなこと

2010-01-18 00:05:50 | なみだ

◇助け合うひとたちや
救助、報道にまつわる感動の実話
その下には、人間ならではの
その他のこともあった、はず…

◇秘め事のふたりは
どうなったんだろう…
そんなこと、ふと思った

◇ほとんどのひとは
05:46という時刻に、家族と眠っている
だけど、家族ではないひとと一緒にいたひとは…

あまりにも、いやらしい邪推であることは
わかっていても…
その後、しあわせでしょうか…

1995 117

2010-01-17 23:33:08 | なみだ

◇終わってゆく今日という日

◇1995年というのは、関東のひとと関西人とでは
全く異なる印象だろう
首都圏のひとには地下鉄サリン事件
関西人には阪神淡路大震災

年末に清水寺で書かれた漢字は『震』だった

◇尊い命…という
事件や事故で尊い命が奪われた、と
もちろんその通りだ

◇亡くなったひとの命は『尊かった』と
過去形にしなければ!
『尊い』のは今を生きるひとの命だ
怪我をした方、障害の残った方
家を、家族を失った方
そのひとたちの命が
いま一番尊いのだ

◇六千人以上の人が亡くなっている
怪我で済んだだけでええやないか…
そんなわけない!
亡くなった人は、もう痛くも苦しくもない
そりゃあ無念だったでしょう
だけど、それは今生きている者の想像だけで
事実ではない
生きているひとは、15年たっても痛む傷がある
それが事実なんだ

◇わたしに何ができるだろう
当時も西宮市役所まで
日常物資を持って行ったけど
自分の偽善者加減にうんざりして帰ったっけ

いまも偽善者にかわりないけど
何かできるのなら手伝おうと思う
機を見ては敏なり

1995ー③

2010-01-17 11:40:03 | なみだ

05:46
NHKの放映を見ながら
黙祷しました

な~んにもなりませんけど(笑)
自己満足と偽善の世界

毎年、黙祷しよと思いながら
その時刻に眠っていたり
すでに日常の活動に入っていたり

15年目の今日は、実行した

今日もNHKは一日中特番を放映している
日曜日というのもあるのだろう…

1995

2010-01-16 23:05:25 | なみだ

◇涙が止まらない
阪神淡路大震災の特集番組…

フジテレビはドラマ仕立て
NHKは生中継でデータ分析

◇あの日のことは忘れない
当時、成人の日がまだ一月十五日で
1995年は土日が重なって三連休だった
友人たちとスキーを楽しんで
筋肉痛のままに勤務日をスタートする
その朝だった

◇当時の住まいは滋賀県守山市
被災はしなかったものの
ものすごい揺れは、寝ぼけながらも
「箪笥が倒れてきたら下敷きになる」
と感じていた

◇あれから15年
どちらも涙なくしては見られなかったし
あまりに辛い場面はチャンネルをかえた…
それは、まだまだわたしが甘いからなのだろう
被害の近くにはいたけれど
実際は被災していない、傍観者の甘さなのだろう