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栗原玉葉(1883~1922) 大正ロマン日本画壇の画家

2024-06-09 15:41:35 | 栗原俊子(交野市前市会議員)より

栗原玉葉(1883~1922) 大正ロマン日本画壇の画家

 亡夫栗原至道・大叔母の絵葉書をお送りするにあたり

                     2024・5・20 栗原俊子

栗原玉葉(本名文子)は長崎県南高来群山田村馬場・現雲仙市香妻町で、酒造業の栗原宰長女として生まれた。上に4人の兄がいて、可愛がられて育つも、小学校の頃父が逝き、後年家が近くからの火事で類焼するなど楽ではないなか、女学校は長崎の梅香崎女学校に入る。そのころ、幼いころから好んで描いた絵が広く認められるようになって、東京女子美術学校・現女子美術大学に入学する。学資は、かっての恩師の支援もあったが、玉葉は生活を切り詰め、夜間学校で教壇に立ち稼ぐ苦学生であった。しかし成績は常に優秀、その才能と人格が先輩や先生に親しまれた。

1910年同校を卒業するや、母を東京に招く。寺崎廣業の門に入り、母校女子美で教鞭をとる。また、梅香崎女学校時代キリスト教の洗礼を受けていて、東京本郷教会では海老名弾正牧師の薫陶を受け、4年間日曜学校の教師となり、幼児教育に携わった。この経験が後に子供の絵に独特の味合いを持たせることになる。歌人の才、達筆な書も残されている。

最初の公募展、文展に入選を果たしたのは,1913年。入選を次々と重ね、1919年には帝展入選。そのころは師の影響も薄れ、大和絵風に変わり円熟味を増すようになる。当時の婦人雑誌の表紙に玉葉の絵が多く用いられたという。玉葉の門下生は100名ほどの大所帯になった「銀葉会」が住まいの東京文京区の白山に集った。しかし、病魔に魅入られ、39歳で病没、才能は薄命とみちずれであったのだろうか。

この稿を纏める資料にしたのは「長崎の女たち 第1集 栗原玉葉」長崎文芸社であるが、その書き出しに、「大正ロマン日本画壇の花形美人画家」の見出しで、「大正時代の女流美人画家として上村松園とともに日本画壇の第 1人者として活躍した薄命の女性、栗原玉葉」と記されている。

なお近年、長崎では、1994年と2018年栗原玉葉特別展が開催されている。

付記

第 165 回直木賞受賞作 津田瞳子「星落ちて、なお」に栗原玉葉が登場していると最近、友人の山下典子さんがお教えくださる。父である不世出の絵師・河鍋暁斎から厳しく仕込まれ一生を絵師として生きた河鍋とよの物語にである。偉大過ぎる父とその才を受けた腹違いの兄への敬意と度視、憧憬と否定などの相反する激しい感情の苛まれつつ絵の道を求めた,とよ。その前を通りすがった「美人画」を描く栗原玉葉が、とよに言った「河鍋派は古い」の評にいたく傷つき、ほどなく早世した玉葉を憐れみ下げて去らした。

とよの物語を脇で盛り上げた玉葉の存在が面白い。お読みくだされば、幸いです。

栗原玉葉(春秋美人図屏風)大正期長崎美術館

 

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