元々、チャンスがあれば田舎をでて上京(大阪だったので上阪?)したい
という気持ちがあったのですが、なかなかきっかけがありませんでした。
22歳を過ぎた頃、高校時代の友人が大阪へ出て行きました。
同じ頃、弟も高校を卒業して大阪へ就職のため出ていきました。
そんな事が重なり、私の大阪への気持ちも益々強くなっていったのです。
そしてレースを始めていた私の思いは、鈴鹿へも向いていました。
後で気が付いたのですが鈴鹿は大阪より名古屋の方が近かったのですが・・・
この頃、鈴鹿サーキットでノービスの夏の祭典で4時間耐久レースが
有名になってきていました。
83年の4時間耐久で優勝したモリワキレーシングの宮城選手と福本選手、
特に宮城選手はスーパーノービスと騒がれた新人でした。
その記事を読んだ頃から私の気持ちは大阪へ行く事を決めていました。
先ず、職探しから始めなければなりませんでした。
当時は、今のようにパソコンで職が探せるような時代ではありませんでしたので
最初はバイク雑誌を調べて人員募集しているところを探し
片っ端から応募したのです。
何軒か返信のあった中で2件ほど面接してもらえるところが決まり
大阪と神戸へそれぞれ面接に行く事になりました。
新幹線に乗り、神戸そして大阪へと一人で出て行くのも初めての事で
期待と不安でいっぱいでしたが、既に決めた自分の気持ちを抑えることは
できませんでした。
神戸での面接は甲子園球場の近くでした。
ここの面接は、結果を待たずこちらから辞退しました。
その理由は、レースで怪我をしたらすぐに解雇と言われ
「これは無理だな」という考えからでした。
大阪での面接は、河内方面にあるショップでした。
面接を終えて田舎に戻り結果を待つ事、数日
連絡がきません・・・
つづく
という気持ちがあったのですが、なかなかきっかけがありませんでした。
22歳を過ぎた頃、高校時代の友人が大阪へ出て行きました。
同じ頃、弟も高校を卒業して大阪へ就職のため出ていきました。
そんな事が重なり、私の大阪への気持ちも益々強くなっていったのです。
そしてレースを始めていた私の思いは、鈴鹿へも向いていました。
後で気が付いたのですが鈴鹿は大阪より名古屋の方が近かったのですが・・・
この頃、鈴鹿サーキットでノービスの夏の祭典で4時間耐久レースが
有名になってきていました。
83年の4時間耐久で優勝したモリワキレーシングの宮城選手と福本選手、
特に宮城選手はスーパーノービスと騒がれた新人でした。
その記事を読んだ頃から私の気持ちは大阪へ行く事を決めていました。
先ず、職探しから始めなければなりませんでした。
当時は、今のようにパソコンで職が探せるような時代ではありませんでしたので
最初はバイク雑誌を調べて人員募集しているところを探し
片っ端から応募したのです。
何軒か返信のあった中で2件ほど面接してもらえるところが決まり
大阪と神戸へそれぞれ面接に行く事になりました。
新幹線に乗り、神戸そして大阪へと一人で出て行くのも初めての事で
期待と不安でいっぱいでしたが、既に決めた自分の気持ちを抑えることは
できませんでした。
神戸での面接は甲子園球場の近くでした。
ここの面接は、結果を待たずこちらから辞退しました。
その理由は、レースで怪我をしたらすぐに解雇と言われ
「これは無理だな」という考えからでした。
大阪での面接は、河内方面にあるショップでした。
面接を終えて田舎に戻り結果を待つ事、数日
連絡がきません・・・
つづく