アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

長八記念館から岩科学校へ

2019-06-29 06:00:05 | つれづれ

河津から松崎に抜けた小生、まだチェックインには時間があるので、松崎観光をすることにした。

  

 松崎といえば、伊豆の長八こと入江長八という鏝絵の名人が名高い。長八美術館には2008年のこのときに出掛けているが、11年ぶりにと思っていたが、とあることから長八記念館の方に行くことにした。

 場所は長八美術館のすぐ近くで、浄感寺というお寺がその場所。

  

 こちらは長八が子供のころよく遊びに来ていたところという。そのご縁でこちらに天井絵をはじめ、いくつかの作品を残している。

 またお墓もこちらの墓所にある。大きなお寺ではないが、スタッフさんの丁寧な解説もあり、なかなか楽しめた。

  

 トップ写真の天井絵(といっても鏝絵だが)は、八方にらみの龍と言われていて、どちらから見ても目がこちらにあるように見える

 さらに光のかげんで、朝や夕にはその目が金色に光るというのもすばらしい。そして脇に控えるのは天女像。この彩色も制作当時のままという。

 

 そのほかにもたくさんの作品があり、なかなか楽しむことができた。そしてここから車を回したのが重文の岩科学校

 こちらは明治13年に竣工したもので、総建築費2630円余、そのうちの四割を村民の寄付で賄ったという。

 

 その後昭和50年に重文に指定されたが、その前までは実際に使われていたとか・・・こちらは、校長室や教室なども再現されていて、けっこう見ごたえがある

 なかでも時代を感じたのが、こちらの階段、角度60度というとんでもないもの。彦根城などでも見られる急な階段は省スペースの効果もあり、昔の建物には多い。

 
 

 身内ネタだが、小生の生まれ育った実家もやはり階段がものすごく急だった。試験勉強で、徹夜明けのフラフラで上から滑り落ちてあわや大けが・・・ということもあった。

 さらに、こちらにも長八の作品が展示されていた。それだけではない。正面に飾られている「岩科学校」という額は、当時の太政大臣三条実美の書というからすごい

 

 伊豆急や天城トンネルなどもないまさに陸の孤島だった伊豆の南部にあって、このような学校があったことは驚くべきことであった。

 ちなみに、小生の母校の高校も明治13年の開校である。この時代に伊豆の下田に高校が開校していたこともすごい。

 

 ちなみに早稲田大学の開校よりも早い。とても日本の最先端とは思えないド田舎ではあるが、実は当時の伊豆には清雲の志を持った人物が多かったということだろうか。

 村民からの寄付が多額だったことも、そんな文化を感じる小生である。

 

 ただ、小生にはそんな文化も教養もまるでないが・・・(苦笑)


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