ちょっと前の記事で、こんなことを書いた。「そうだ京都行こう」ならぬ「そうだ奈良行こう」ということで、弾丸ツアーを決行してしまった。
歴史マニアの小生にとって、法隆寺の救世観音が生で見られるというのは貴重な機会だし・・・と、いうことで早朝の往復と京都の宿泊がセットになったツアーで出掛けた。
京都に到着して、JR奈良線で奈良に向かうと外国人観光客が8割以上というびっくりな車内に驚きながら、奈良から乗り換えで法隆寺駅へ到着。
そこから法隆寺に向かうと、修学旅行の嵐・・・まあ、季節といい、ド定番のスポットだから、当然なのだが・・・
さて、気を取り直してまずは金堂のある西院伽藍に。こちらに来たのはこの記事のとき以来、ちょうど6年前か・・・と。
今は中門が工事中だったが、前回と違ったのは修学旅行生の嵐。今回は救世観音と百済観音を見ることが目的だから、流しめに見ていく。
それでも本尊の釈迦三尊像は相変わらず輝きを持っていたし、やはりここが特別な場所であることを感じさせてくれる。
ここから宝物殿に進む。玉虫厨子の周辺は人だかりができていたが、全体に混雑していない。修学旅行生にとっては、今時は流行らないのかしらん。
そして百済観音に到着。こちらはびっくりするぐらい空いていて、いいのかなと思うくらいだった。直前に「百済観音の謎」(関裕二氏)なる本を読んでいたので、じっくりと。
ありえないくらいにスラッとしたスタイルに、あらゆる感情を超越したかのような力の抜けた表情や佇まい。横から見たときのなだらかなカーブなんかもなんとも素晴らしい。
現実的にはありえないくらいの細さなのに、命を感じるぎりぎりのバランスは傑作というべきだろう。
このあまりに有名な像は、法隆寺にもともとあったものではなかったようだ。そのあたりについては、長くなるのでここで止めておきたい。
そしてここから東院伽藍に向かう。お目当ての夢殿の救世観音を見に・・・この建物は739年に行信が建てたという。
だがこちらの記事のとおり、この救世観音像は聖徳太子の等身大で姿を映したものと言われているが、造立年代からここに安置されるまではどこにあったのだろう。これひとつが謎といえば謎である・・・
初めて見るそのお顔は・・・うっすらと微笑しているように見えた。そして百済観音の力の抜けたスリムな姿に対し、こちらはしっかりとした肉感を感じた。
そう、エネルギーがしっかりと感じられるのだ。このあたりが、祟りを恐れて長い間秘仏になっていた由来かも・・・と。
が・・・ちょっと待て、祟りというのは祟る方は恨みをもっているわけで、そこには「謀略等で不遇な死に方をした」という前提があるはずだ。
もっというと祟られる方に「後ろめたい」ことがあるからで、一番有名なのは菅原道真だし、小生の知る限り一番強いのは崇徳院だろう。
だとすると聖徳太子は何に恨みを持っているのか。通説では、子供の山背大兄王を殺害されたこととされているが、これは聖徳太子の死後だし、そもそも祟るのは山背大兄王のはず。やはり、ここは理屈が合わない・・・
最近は、法隆寺が蘇我氏の祟りを鎮めるために建てられたお寺という説も出ている。なるほどなあ・・・と。
と思ったところで、次の目的地に向かった。
歴史マニアの小生にとって、法隆寺の救世観音が生で見られるというのは貴重な機会だし・・・と、いうことで早朝の往復と京都の宿泊がセットになったツアーで出掛けた。
京都に到着して、JR奈良線で奈良に向かうと外国人観光客が8割以上というびっくりな車内に驚きながら、奈良から乗り換えで法隆寺駅へ到着。
そこから法隆寺に向かうと、修学旅行の嵐・・・まあ、季節といい、ド定番のスポットだから、当然なのだが・・・
さて、気を取り直してまずは金堂のある西院伽藍に。こちらに来たのはこの記事のとき以来、ちょうど6年前か・・・と。
今は中門が工事中だったが、前回と違ったのは修学旅行生の嵐。今回は救世観音と百済観音を見ることが目的だから、流しめに見ていく。
それでも本尊の釈迦三尊像は相変わらず輝きを持っていたし、やはりここが特別な場所であることを感じさせてくれる。
ここから宝物殿に進む。玉虫厨子の周辺は人だかりができていたが、全体に混雑していない。修学旅行生にとっては、今時は流行らないのかしらん。
そして百済観音に到着。こちらはびっくりするぐらい空いていて、いいのかなと思うくらいだった。直前に「百済観音の謎」(関裕二氏)なる本を読んでいたので、じっくりと。
ありえないくらいにスラッとしたスタイルに、あらゆる感情を超越したかのような力の抜けた表情や佇まい。横から見たときのなだらかなカーブなんかもなんとも素晴らしい。
現実的にはありえないくらいの細さなのに、命を感じるぎりぎりのバランスは傑作というべきだろう。
このあまりに有名な像は、法隆寺にもともとあったものではなかったようだ。そのあたりについては、長くなるのでここで止めておきたい。
そしてここから東院伽藍に向かう。お目当ての夢殿の救世観音を見に・・・この建物は739年に行信が建てたという。
だがこちらの記事のとおり、この救世観音像は聖徳太子の等身大で姿を映したものと言われているが、造立年代からここに安置されるまではどこにあったのだろう。これひとつが謎といえば謎である・・・
初めて見るそのお顔は・・・うっすらと微笑しているように見えた。そして百済観音の力の抜けたスリムな姿に対し、こちらはしっかりとした肉感を感じた。
そう、エネルギーがしっかりと感じられるのだ。このあたりが、祟りを恐れて長い間秘仏になっていた由来かも・・・と。
が・・・ちょっと待て、祟りというのは祟る方は恨みをもっているわけで、そこには「謀略等で不遇な死に方をした」という前提があるはずだ。
もっというと祟られる方に「後ろめたい」ことがあるからで、一番有名なのは菅原道真だし、小生の知る限り一番強いのは崇徳院だろう。
だとすると聖徳太子は何に恨みを持っているのか。通説では、子供の山背大兄王を殺害されたこととされているが、これは聖徳太子の死後だし、そもそも祟るのは山背大兄王のはず。やはり、ここは理屈が合わない・・・
最近は、法隆寺が蘇我氏の祟りを鎮めるために建てられたお寺という説も出ている。なるほどなあ・・・と。
と思ったところで、次の目的地に向かった。
本当は半日くらいゆっくり見たかったのですが、諸般の事情からやや早足になりました。
でも感じるものは多くていい体験でした。明日の記事では、次の目的地に行きます。乞うご期待(笑)
梅原猛の『隠された十字架』を片手に、法隆寺の“謎”の場所を巡りながら、半日過ごしたことを思い出します。