調子に乗り過ぎとの批判をよそに、第三弾。今日は宮内庁が陵墓を変更した事例を紹介しよう。それは、明日香村にある天武・持統合葬陵である。
天武天皇といえば、兄の天智天皇と皇太子時代は額田王をめぐって恋敵となり、壬申の乱で覇権を握った偉大な天皇である。
また、その妻の持統天皇とのラブラブぶりはつとに有名だ。そこで、二人は同じ古墳に葬られたのだが、持統天皇は日本で最初に火葬にされたことでも有名だ。
要は、イタリア人みたいな男性と新し物好きの女性のカップルというわけである。ちなみに、天智天皇や持統天皇は百人一首に入っているが、天武天皇は入っていない。
そのかわり、天武天皇はいろいろな文献で初めて「神」とあがめられるようになった人物であり、歴史上もっとも有名な天皇の一人である。
二人の古墳は当初別の巨大古墳とされていたのだが、鎌倉時代に合葬陵に盗掘に入った輩がおり、内部の記録が書かれた盗掘記録が明治になって公開された。
その中で、この墓に二人が葬られており、かつ一人が火葬だったことが決め手となったのだ。古墳時代末期の事例である。
この陵墓は、天武天皇が発願した藤原京の朱雀大路の真南にあり、聖なるラインと呼ばれている。実は、このラインには他にもいくつか古墳がある。
天武天皇の孫の文武天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳などだ。よって、これらはすべて天武系の皇族の墓と考えて良さそうだが、後者3つは宮内庁の指定を受けていない。不思議なことではある。
高松塚やキトラの絵画は有名で、古墳の規模は小さいが、きわめて高度な技術が施されているし、中尾山は天武・天武・持統合葬陵と同じ八角形である。
小生も最近知ったことだが、京都にある天智天皇陵とこの聖なるラインは、ほぼ完璧に重なるという。それも経度では秒単位だという。
恋敵がやがて政敵となり、兄の死直後に兄の息子の弘文天皇を滅ぼした天武天皇だが、やはり思うところがあったのだろうか。
藤原京の設計にあたり、意識したのは間違いないだろう。何を思ったのかは別として、今もこの兄弟は完璧に南北一直線で眠っている…
天武天皇といえば、兄の天智天皇と皇太子時代は額田王をめぐって恋敵となり、壬申の乱で覇権を握った偉大な天皇である。
また、その妻の持統天皇とのラブラブぶりはつとに有名だ。そこで、二人は同じ古墳に葬られたのだが、持統天皇は日本で最初に火葬にされたことでも有名だ。
要は、イタリア人みたいな男性と新し物好きの女性のカップルというわけである。ちなみに、天智天皇や持統天皇は百人一首に入っているが、天武天皇は入っていない。
そのかわり、天武天皇はいろいろな文献で初めて「神」とあがめられるようになった人物であり、歴史上もっとも有名な天皇の一人である。
二人の古墳は当初別の巨大古墳とされていたのだが、鎌倉時代に合葬陵に盗掘に入った輩がおり、内部の記録が書かれた盗掘記録が明治になって公開された。
その中で、この墓に二人が葬られており、かつ一人が火葬だったことが決め手となったのだ。古墳時代末期の事例である。
この陵墓は、天武天皇が発願した藤原京の朱雀大路の真南にあり、聖なるラインと呼ばれている。実は、このラインには他にもいくつか古墳がある。
天武天皇の孫の文武天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳などだ。よって、これらはすべて天武系の皇族の墓と考えて良さそうだが、後者3つは宮内庁の指定を受けていない。不思議なことではある。
高松塚やキトラの絵画は有名で、古墳の規模は小さいが、きわめて高度な技術が施されているし、中尾山は天武・天武・持統合葬陵と同じ八角形である。
小生も最近知ったことだが、京都にある天智天皇陵とこの聖なるラインは、ほぼ完璧に重なるという。それも経度では秒単位だという。
恋敵がやがて政敵となり、兄の死直後に兄の息子の弘文天皇を滅ぼした天武天皇だが、やはり思うところがあったのだろうか。
藤原京の設計にあたり、意識したのは間違いないだろう。何を思ったのかは別として、今もこの兄弟は完璧に南北一直線で眠っている…
昨日も、高松塚古墳の壁画保存のための冷却を始めたとニュースがありましたが、どうしてこんなに傷んでからなんでしょう。
10℃まで下げるらしいですが、学芸員の言葉「10℃以下でも、元気なカビはいますし……」に
いろいろな方面での技術力が高い日本で、どうにかできないのは、なぜ?
地震や台風被災地への支援も大事ですが、その前に、自分の国の財産を護ることに予算がつけられないって
桂さんのトピとは、ずれた話になって、申し訳ありません。
はぁい、話を戻して。
「経度で秒単位」で位置を測れる極量技術があったとは
どうやって測ったか記録したものは、ない。。。。でしょうね。
あぁ、また、貴重な財産がぁぁぁ。。。
と、元に戻ってしまうので、ここらへんで
>「経度で秒単位」で位置を測れる極量技術があったとは
>どうやって測ったか記録したものは、ない。。。。でしょうね。
シルクロード経由でギリシャ・中国あたりの技術が来たか、当時の日本でも測量の事始のような技術を独自で開発していたかも。
一子相伝的に技術が伝えられたのかなぁ。
横に並んでいたんでしょうかね。。。
ま、持統天皇は火葬だと言う事だから関係ないかもしれませんが、こちらではお墓に入る時、大抵先に亡くなった人が下で後から亡くなった人がその上に入ります。
知り合いの奥さんが「私は絶対ダンナより一日でも長く生きる」って言ってます。お墓に入ってからもずっとご主人の下になっているのは嫌、って事らしいです (苦笑)。
だんな側としては、なかなかつらい話です。