
両国の江戸東京博物館に出かけたことを紹介したが、当日落語会の前に少し時間があったので、両国界隈を歩いてみた。

両国の駅は、浅草橋から隅田川を渡ればすぐである。ということでまずは隅田川沿いに歩みを進める。
この日は、風はそれほどでもないように思ったが、波がべらぼうに強かった。隅田川が、こんなに波打つなんて・・・ってくらいだった。
墨田川沿いに少し歩くとすぐに大きな橋が見えてくる。これが、名高い両国橋である。今の感覚では、吾妻橋の方がメジャーなところに感じるが、両国橋といえば落語の「たがや」などの舞台でもある。
かつては花火大会などでも中心的な舞台であり、今でいえば数寄屋橋ってとこか。さて、隅田川は屋形船や水上バスなど、船の往来も多い。

この水上バスも屋形船に似たものや宇宙船のようなおしゃれなものまで、いろんな形がある。そんな新旧の船が交差するシーンをトップ写真にしてみた。
しかし、この日の波やスケールを見て、改めて隅田川でなく、大川と呼ばれていた感じが実感された。
浅草周辺の隅田川と同じ川・・・なんだが、なんとなく別ものに見えてしまった。この日の天候や波がそうさせたのかも知れない。
ときに、この両国は明暦の大火を機に両国橋が作られ、その周辺を火除けの地域として整備されたことがもとで、繁華街になっていったことでも有名だ。

今でも、どぜうや山くじらをはじめ、天ぷらや寿司など、江戸の香りのするお店が多い。写真は相撲の発祥の地である回向院の力塚だが、こうした興業が両国で起こったことも偶然ではあるまい。
今の回向院には、そうした名残は少なくなっているが、どことなくパワースポットのオーラを感じた。
今の国技館の前は蔵前に国技館があったが、その前はここに国技館があった。当時東洋一をうたった大ホールであり、GHQに接収されて後は大相撲の興業は行われなくなり、その後日大講堂になったことも有名だ。
今では、商業施設になっていて、その一角に当時の大相撲の屋根のあったところが跡地として記録されていた。
わずかな時間の散策だったが、江戸の風情を味わえるいい時間になった。

両国の駅は、浅草橋から隅田川を渡ればすぐである。ということでまずは隅田川沿いに歩みを進める。
この日は、風はそれほどでもないように思ったが、波がべらぼうに強かった。隅田川が、こんなに波打つなんて・・・ってくらいだった。
墨田川沿いに少し歩くとすぐに大きな橋が見えてくる。これが、名高い両国橋である。今の感覚では、吾妻橋の方がメジャーなところに感じるが、両国橋といえば落語の「たがや」などの舞台でもある。
かつては花火大会などでも中心的な舞台であり、今でいえば数寄屋橋ってとこか。さて、隅田川は屋形船や水上バスなど、船の往来も多い。

この水上バスも屋形船に似たものや宇宙船のようなおしゃれなものまで、いろんな形がある。そんな新旧の船が交差するシーンをトップ写真にしてみた。
しかし、この日の波やスケールを見て、改めて隅田川でなく、大川と呼ばれていた感じが実感された。
浅草周辺の隅田川と同じ川・・・なんだが、なんとなく別ものに見えてしまった。この日の天候や波がそうさせたのかも知れない。
ときに、この両国は明暦の大火を機に両国橋が作られ、その周辺を火除けの地域として整備されたことがもとで、繁華街になっていったことでも有名だ。

今でも、どぜうや山くじらをはじめ、天ぷらや寿司など、江戸の香りのするお店が多い。写真は相撲の発祥の地である回向院の力塚だが、こうした興業が両国で起こったことも偶然ではあるまい。
今の回向院には、そうした名残は少なくなっているが、どことなくパワースポットのオーラを感じた。
今の国技館の前は蔵前に国技館があったが、その前はここに国技館があった。当時東洋一をうたった大ホールであり、GHQに接収されて後は大相撲の興業は行われなくなり、その後日大講堂になったことも有名だ。
今では、商業施設になっていて、その一角に当時の大相撲の屋根のあったところが跡地として記録されていた。
わずかな時間の散策だったが、江戸の風情を味わえるいい時間になった。
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