小生が落語を生で聞くようになったのは大学生になってからだが、先輩から落語を勉強するには、とにかくたくさん聞くため寄席に行けと言われた。
平日の末広亭は入れ替え無しで、一日たっぷり聞いていられた。だが、そのときに指導されたのは落語協会に行けと・・・
通称、「らっきょう(落協)」は圓生、小さん、馬生、志ん朝、談志、圓楽、小三治をはじめ多士済々で、およそ番組でもはずれはなかった。
これに対し、落語芸術協会、通称「芸協」の方は桂米丸会長をはじめ新作を手掛ける噺家が多く、古典を勉強するにはなじまなかったし、正直物足りなかった。
そんな中、一人だけ本格的な古典落語の使い手がいた。それが桂文朝だった。彼は当時、芸協の志ん朝と呼ばれていた。
まあ、その呼称は彼にとっては失礼な感じもあるが、ニュアンスからすると言いえて妙だった。たたずまいから言うと、柳朝にも近かったかも。
音源として、いくつか見つかった。こちらが「寝床」だ。志ん朝と比べると華やかな感じはしないが、その落ち着いた語り口はネタによってはハマるように思った。「居残り佐平次」では、それが功を奏しているようにもみえる。
そんな文朝は、TBSの落語研究会という番組にも出演したことがある。当時の落語研究会では、圓生・正蔵・小さんがレギュラーで、志ん朝や圓楽などが毎回競い合っていた。
時には米朝や春團治など上方からも参加していたが、そこに芸協から出るのはまれだった。記憶が正しければ、米丸・小南と文朝くらいか。
そこで彼がやった「三下り半」という新作落語には感動したことを覚えている。今、その音源はなく、幻のものとなっているが、入手できれば稽古したいものだ。
文朝は84年に芸協を脱退し、落協に所属している。調べてみると、真打昇進までに入門から18年かかっている。かなり遅い出世だったことになると思いきや、入門が10歳のときだから、真打には20代で上がった形。
落協では理事なども務めたが、2005年にガンで死去、享年63歳というから、志ん朝ともども早すぎる死去だった。
芸協の志ん朝と呼ばれた文朝が、志ん朝と同じ63歳での死去だったことは、なんともいえない縁を感じる。
タラレバ言ってはいけないが、今生きていれば75歳。本音のところ、あと10年生きてくれれば・・・と。
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