かつて、小生のお気に入りのお宿のひとつに「猿ヶ京ホテル」というのがあった。お風呂も良かったし、豆腐の懐石料理と朝食の豆腐屋さんバイキングが秀逸で、よく出かけていた。2015年に久しぶりに来たら、経営が変わっていた様子だったが・・・
ともあれ、初めて猿ヶ京ホテルに来た頃から気になっていたのが「名胡桃城址」だった。歴史マニアとしてはその名は知っていながらも、国道17号沿いで、こんな感じなんだ・・・というくらいスルーしてしまうような状況だった。
それが、大河ドラマの「真田丸」の頃からどんどん整備が進んでいった。
来るたびに環境が整備されていて、今回はどうだろうと貝掛の帰りに立ち寄ってみた。前回来たときはこの時だった。
ちなみに名胡桃城についてあまりご存じでない方も多いかと思われるので、参考までにこんな記事のリンクを貼っておきたい。
正確に言うと、城というより砦という印象の方が強いかなと。天守は元々ないし、もちろん石垣とかもない。
ただ、今回も予想どおり、整備がさらに進んでいて、土塁や空堀などが当時を偲ばせてくれるような感じだった。天然の地形を活かし、実際これを攻めるのは大変だぞ・・・と思った。
写真的には地味だが、あれっ、こんなに奥まで曲輪があった? という感じで、さらに利根川沿いの低地が広く見渡せる。
低地の向こう岸には河岸段丘があり、その崖の上に沼田城が見える。そう沼田城はかつて真田の所有だったが、北条のものとなり、その時真田昌幸が、秀吉に出まかせをかましながら、名胡桃城を含む、わずかな地域を領地として残すことに成功した経緯がある。
ところが、沼田城主(北条側)が謀略をもって真田側の名胡桃城を奪い取ってしまった。結果的に、これが北条征伐の大義になったという・・・
まさに、この小さな城が歴史を変えたということになる。確かに、この地で沼田城を見ると、国境の最前線という感じがする。
真田昌幸が、その後の展開まで予測してこの城を勝ち取ったとは思わないが、戦略的には極めて重要なところであることは間違いなく、真田昌幸の戦略眼のすごさを感じる。
この地は、上杉が所有していてもまったくおかしくないところなのだ。ここを真田(つまり秀吉側)が抑えることで、北条と上杉にくさびを打つ形になっている。
今更だが、真田氏が本来は大名というレベルではないものの、北条・上杉・武田のちょうど狭間を領地としていて、武田亡きあとは秀吉を後ろ盾として巧みに立ちまわっていたことがよくわかる。
後に、真田幸村が最後まで豊臣側につき従ったのも、このあたりからのご縁があったのかも知れない。
場所は違うものの、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と言いたくなった。
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