差別がなくならない。
これだけ啓蒙しているのに。
なぜならば、差別とはある対象に対して自分の不満をぶつけているだけで、その対象には意味がないからである。
対症療法も大事だけれど、元を断たなきゃダメ。
差別事象をいくら問題とし、改善しようとしても、差別は形を変えて現れる。
だから、差別する側の「不満」を取り除かなければならない。
差別の解消に意味がないと言っているのではない。例えば、男女差別。解消しなければならない現実の問題は多い。でも、戦略的にはどうなんだろ。言われた方は、ウッセってなってしまうんだよね。(次回ね)
前回の記事でも書いたが、「差別」=「いじめ」=「誹謗中傷」は、自分のコンプレックスの裏返し。
自分の調子が悪い時に「何か」に当たってしまう。
対象は何でもいいのだ。
その時々で変わる。
他人を攻撃する時は、自分の嫌な部分を攻撃している場合が多い。
ということは、自分のよくない部分をわかっているということ。
本来は自分を改善しなければならないのだが、面倒だから自分を変えずに、「他」を攻撃してしまう。
優越感に浸っていたり、劣等感に苛まされている時。(両方ともcomplex)
人は、自分の悪事はわかっている。
誰も見ていなくとも、自分は騙せない。
人を傷つけることを言ったりやったりすれば、自分が嫌になる。
自分も傷つけているのだ。
足を踏んだ者は覚えていないが、踏んづけられた者はいつまでも覚えているといわれる。
が、踏んだ者も覚えているのである。
ところで、「君たちはどう生きるか」見て来ました、恥ずかしながら。
高齢者多かった。(割引知らんかったよ)
ネタバレすると、アオサギは主人公の分身。全て主人公の夢。慣れない義母の実家に疎開してきた、不安な彼の見た夢です。だから、出てくるモノは全て彼。(神話的要素を加味すれば内田樹くん)「街とその不確かな壁」に通じるところもある。まあ、大叔父はまさにオラだね。ブログなん書いてねぇで、農業でもしなせ、と。婆ちゃん達が新潟弁なんで笑ったよ。
「悩む」ということは、正解を知っているということだ。
コペルくんや真人くんが言いたかったことはこのこと。
僕たちは正解を知っている
養老先生は、差別と社会は無関係ではないとおっしゃる(うろ覚えですが)。橋本治先生は、「メンドクサイ話をすれば、存在するものを知らないでいるということが“差別”というものの根源なのだが、メンドクサイからやめる」とおっしゃる。(ムズカシイ)
「福田村事件」が話題になっているけれど、コロナで起こったことと何が違うんだ?