後世に何かを残したいというのは、誰しもが思う(儚い)願望だ。大したことも成し遂げていないのに、自分の生きた証でも残したいのか(たぶん男に多いね)。ただ、先行き不安な時代だからこそ、その思いは強くなったような気がする。
隠居直後(たかだか2年前)は、もっと安心して後世に託すことができるような気がしていた。それは、仕事をしていたので若い世代と接していたということもあるだろう。しかしそれよりも、世の中が大きく変わろうとしすぎている、ということが大きいような気がする。早く気づいてくれよ、後の祭とならないうちに、ということだ。
人生一周分も生きれば、誰かに影響は与えている。自分の子供がいようがいまいが、誰かが受け継いでくれるはずだ(しかも修正しながら)。大体が、人間の脳ミソは同じだから、同じような考えは出てくるだろうし、今もそんなものはいくつも転がっている。
人間の原始社会は、100人ぐらいの群れで狩猟採集生活を行っていたと思われる。そこでは、後世に託したいという気持ちは起きなかったのではないか。というのは、必ず「群れ」が受け継いでいたからだ。そもそも「個人」という概念すらなかったかもしれない。
生物の目的は種の「存続」。後世に託すのは、種を存続してほしいからだ。が、「存続」という言葉は難しい。短いスパンの状態を表すわけではない。ある一定のスパンの中で、ある状態を維持することだ。しかし、全く変化しないということはない。では、どこまでの変化を「存続」というのだろう。例えば、恐竜が進化して鳥類になったと言われているが、これは「存続」なのだろうか。
もっともっと長いスパン、メタな視点で考えると「存在」となる。地球とか、宇宙とかのレベル。宇宙なら、なくなることはできない。
自分を「存続」させたいと思う「利己」心が、生物にはある。それがなければ、生へのモチベーションがなくなるかもしれない。水のようになって世界と溶け込んだ「自分」が生きたいと思うだろうか。この自分の「存続A」(拡大+子孫)と種の「存続B」、地球の「存続C」がバランスよく成り立たないと、種どころか地球の存続まで危ぶまれる。これを明らかに崩しているのが今の時代の人類。人間にBとCまで見えてますかの?Aを隠れ蓑に、楽チンしすぎてないかい?
A、B、Cはイコールでは繋げない。Aが突出すればBは実現するかもしれないけれど(今がその状態)、Cを滅亡させかねない。あるいは、その種の自滅であろう。
ところで、後世に託したい、は叶わない願いなのだろうか。
せめて、津波の記憶は残したい。
ということを3月11日に考えた。
白状すると、例によって加藤和さんの2023年1月22日と2023年2月3日の記事をパクってます。ただ、読んで考えたのは、たまたま3/11でした。