古磵(こかん)さんの涅槃図。
京都泉涌寺の涅槃会3月14・15・16日があり涅槃図がかけられます。大きさは縦16m、横8m、重さは150キロ。大和郡山にも関係あるという明誉 古磵(みょうよ こかん、承応2年(1653年) - 享保2年5月23日(1717年7月1日)の書いたものです。とにかく大きい。
Weblio 辞書から引用
https://www.weblio.jp/content/明誉古磵
https://ja.wikipedia.org/wiki/明誉古礀
「略伝
出生地や家系、世俗名などの出自は不明だが、大和郡山出身とする説がある[2][1]。当時浄土宗の僧侶になるには、15歳でどこかの寺院に所属し関東十八檀林での修学を始めるのが普通なため、このころに出家したと考えられる[1]。所属は大和郡山の西岸寺とする意見もあるが、『続緑山志目次』の記述から称名寺 (奈良市)の可能性がある[1]。増上寺で修行したとされ、貞享元年(1684年)32歳の時、敬神の証として自ら大黒天を1000体描くことにした、というのが初めてわかる事績である。1680年代後半から20年ほど、京都で画僧として活動していたようだ。年次が確実な最も早い作品は、貞享5年(1688年)刊行の『當麻曼荼羅白記撮要』(当麻曼荼羅についての必修概要)と『浄土十六祖伝』の木版挿絵で、以後もしばしば浄土宗関係の版本の挿絵を手掛けている。元禄10年(1697年)知恩院で浄土宗祖法然が東山天皇から「円光大師」を追贈されたことを祝した記念式典が行われた際、古磵はこれを記録する「円光大師贈号絵詞伝」制作を任されており、既に画僧として名声を得ていたことを物語っている。
元禄15年(1702年)頃に大和郡山の西岸寺に移り、ついで正徳元年(1711年)頃に西岩倉の専修院、上京区の浄福寺へ移り、後に報恩寺に移る。京都移住後も奈良との関係は深く、奈良や大和郡山を中心に多くの社寺に古磵の作品を残している。特に正徳2年(1712年)から享保元年(1716年)までの4年間は薬師寺を頻繁に訪れ、地蔵院に逗留していた[1]。晩年大和に行き郡山西巌寺にて没す[3]。享保2年(1717年)示寂、65歳。墓所は報恩寺とされるが、これは同寺の第25世来誉が天明の大火後に歴代住職顕彰のために建立した無縫塔である。実際の墓は現在確認できないが、浄福寺に葬られたと考えられ[4][1]、薬師寺大基堂に位牌が安置されている。
」