「それでも、『人の育ち』というものを信じたい。」
ここ何年間で何度もつぶやいた言葉です。
第一に、自分自身の育ちが信じられない。判断に迷い、結果的に悪い方向に流れたりする。敬語を時折間違って使うことがある。何度見直しても誤字脱字に気づかなかったりする。これまでの自分の育ちは何だったのだろう。
第二に、たった半年、1年間の授業で学生の日本語表現が改善されるのだろうか。外国人ならいざ知らず、それまでの育ちの中で蓄積されてきたものが、短期間で大きく変化するものなのか。教育者として、これからの育ちにどれだけ関与できるのだろう。
それでも、人間の生涯発達、生涯学習、生涯教育という『人の育ち』の視点を持ち続けたい。すなわち、今は沈滞した状態であっても、学ぼうという気持ちがあれば必ずスキルは向上する、この沈滞は飛躍のための準備段階であることを信じたいと思います。
ここ何年間で何度もつぶやいた言葉です。
第一に、自分自身の育ちが信じられない。判断に迷い、結果的に悪い方向に流れたりする。敬語を時折間違って使うことがある。何度見直しても誤字脱字に気づかなかったりする。これまでの自分の育ちは何だったのだろう。
第二に、たった半年、1年間の授業で学生の日本語表現が改善されるのだろうか。外国人ならいざ知らず、それまでの育ちの中で蓄積されてきたものが、短期間で大きく変化するものなのか。教育者として、これからの育ちにどれだけ関与できるのだろう。
それでも、人間の生涯発達、生涯学習、生涯教育という『人の育ち』の視点を持ち続けたい。すなわち、今は沈滞した状態であっても、学ぼうという気持ちがあれば必ずスキルは向上する、この沈滞は飛躍のための準備段階であることを信じたいと思います。