【Good Luck】2020

幸運に!幸運を願う!またね

Back numberのsister

2022-04-11 22:10:00 | 心に伝わるback Music
皆さんはご無沙汰してますkentathuです。

現在は千葉県東庄町で仕事してたのですが明日引越します。

今回はRさんの話です。

心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。


89作目は、
backnumberの『SISTER』です。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪「SISTER」♪ 


By kentathu

それでは、Rさんの話です。

お母さん代わりだったお兄ちゃんへ


私が生まれてすぐに父が亡くなり、小学校に入る直前に母が亡くなりました。
幼い私の親代わりになってくれたのは、年の離れた兄でした。
当時私は6歳で、兄は18歳。高校を出て、就職したばかりの状況で、突然私の面倒を見なくてはならなくなった兄ですが、思えば一度も嫌な顔をしたことはありませんでした。
あれから15年、兄が結婚、私は就職、上京することになり、一緒に暮らした家を引き払うことに。
その時に見つけたのが兄の日記でした。
母が亡くなった日のこと、私の運動会のこと、初めて料理を作ってあげた日のこと…今思えば、兄もまだ18歳で、親に頼りたい気持ちもあったはずなのに、突然母を失い、幼い私の面倒を見ることはどんなに大変だったことか…
「母さんに会いたい。母さんだったらどうしただろう?」癖のある字で書かれた葛藤を見た瞬間、涙がとまりませんでした。
また、運動会の時は、三つ編みにして欲しいとせがんで兄を困らせたことを日記を読んで思い出しました。
女の子の髪を結ったことなど当然なかった兄は、上手にできず、私は「お母さんは綺麗にやってくれた!」と泣き、騒いだのです。
その時、兄は困ったように笑い、私をたしなめるだけでしたが、本当はとても傷ついていたようです。
「お母さんじゃなくてごめん。上手にできなくてごめん。」と書かれており、髪の結い方などを調べたメモが何枚も挟まっていました。
きっと、この時、私は兄を泣かせてしまったんじゃないかと思います。
もう兄は覚えていないかもしれないけどぎゅっと胸がしめつけられる思いでした。
そして、日記の最後のページに書かれているのは、私が高校に入って初めて兄に料理を作ってあげた時のこと。
とても料理とはいえないようなものだったけど美味しい美味しいといって食べてくれたことは、今でも覚えています。
日記には「本当に優しくて自慢の妹。立派に育ってよかった。お母さんに会わせてあげたかった。」
と書かれていて、これが最後の日記でした。
兄が見たら、恥ずかしいと言って捨ててしまいそうだったので、私はこの日記帳をそっとカバンにしまいました。
この日記帳は、これから先、私にとって最も大切な宝物になることでしょう。
今まで、自分のことなんて二の次で、兄は若い頃の時間は全て私に費やしてしまったように思います。
お兄ちゃん、今までありがとう。そして結婚おめでとう。
これからは奥さんと思う存分楽しい時間を過ごしてね。
初任給が出たら、たくさん恩返しするからね。


Rより

嵐 『SAKURA』

2018-09-30 23:59:10 | 心に伝わるback Music
約1年4ヶ月ぶりです。
皆さんはご無沙汰してますkentathuです。


現在は静岡県の富士市に居ます。

台風が近づいていて『嵐』の中に居るようです。
皆さんの地域は大丈夫ですか?

今回はタクシー運転手がお客さんから聞いた話です。

心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。


87作目は、
嵐の『SAKURA』です。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪「SAKURA」♪


この曲はドラマ「ウロボロス」の主題歌にもなってます。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪『ウロボロス』」♪



By kentathu


それでは、タクシー運転手さんの話です。

追記を読む(MORE)に進んで下さい。


タクシーの中でお客さんとどんな話をするか、平均で10分前後の短い時間で完結する話題と言えばやはり天気の話になります。

今日の福岡は台風11号の余波で、朝から断続的に激しい雨が降っていました。

午後も遅く、駅の近くの整骨院からそのおばあちゃんをお乗せした時もー。

「どちらまで行きましょう?」

「近くて悪いけど、五条(太宰府市)の○○薬局までお願いできるやろか」

「了解しました」

普通に走れば10分程の距離です。

「よく降りますねー」

「やっぱり台風の影響やろうか」

「四国や近畿は大変みたいですよ」

「福岡は被害が少なくてな、有難かよ」

「オオカミ少年の話みたいに、来る来るって言われて来ないと段々警戒しなくなりますよね」

「そういう時が本当は一番危なかとよ」

と、ここまでは最近の定番の流れです。


車は若干の渋滞の中を増水した川に沿って走っていました。

「昔な、私がまだ小学校の三年生やった頃、台風でこの川が氾濫した事があったとよ」

「はあ…」

「家の台所、その当時は土間やった所に水が入って来てな、母親が学校に行って人を呼んで来なさいって言うとよ。

その母親は継母で厳しい人やったけん、私は逆らえんで雨風の中に飛び出したと」

「ほほう…」

「ちょうど今ぐらいの時間やったけど、空はもっと暗くてね。どこが川なんか分からんくらい辺り一面水浸しやった。

途方に暮れたけど、家に戻ると叱られるって分かっとったからな、もう無我夢中で土手をよじ登って、何度も吹き飛ばされそうになりながら学校に向かって走ったとよ。

校舎の裏の崖を今度は半ば流されながら下って、やっと学校にり着いた時には、辺りはもう真っ暗やった…」

車は五条の通りをノロノロと進んでいます。

台風で学校に残っていた先生達は、職員室に駆け込んで来た彼女を見て驚いた様子でしたが、彼女が事情を話すと数人の男性教師が合羽を着て外に走り出して行きました。

「よくここまで来たね」

「お母さんがよこしたの?」

「そう…大変だったわね」

残った先生達が彼女を労ってくれました。

皆、彼女の家の事情は知っていたようで、

『可哀想にこんな小さな子を台風の中外に出すなんて』

という気持ちだったのでしょう。

中でも一人の女性教師が、

「T子ちゃん、こんなに濡れて頑張ったね!

辛かったね。

でもお母さんを悪く思わないでね」

と抱きかかえるようにして彼女の身体を拭いてくれました。

「有り難くてね、涙が止まらんかったよ」

あと一つ角を曲がれば薬局が見えてきます。

僕は『そろそろ切り上げ時かな』と思い、

「先生の恩って有難いですね」

とか何とか、無難な合いの手を入れて話しを終わらせようとしました。

しかし、次の彼女の一言で言葉が出なくなりました。

「後で判ったんやけどな、その時の女の先生っていうのが私の本当のお母さんやったんよ」



車は薬局の駐車場で停止しました。

「ごめんな、運転手さん。年寄りの話に付き合わせて」

「いえ…」

「いくらかな」

「920円です」

千円札を出して、

「お釣りはいらんからな、コーヒー代にもならんやろうけど」

「ありがとうございます」

足を庇いながら俯き加減に降りて行ったおばあちゃんの顔は見なかったけど、泣いているのは声で分かりました。

顔を見られなかったのは、僕も泣いていたからです。



タクシー運転手より


JUJU 『ありがとう』

2017-05-14 22:00:04 | 心に伝わるback Music
約1年の時を経て帰って来ました。
皆さんはご無沙汰してますkentathuです。


現在は山梨県(富士山の本栖湖が有る町内)に居ます。

今回はおじいさんの話です。

心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。


86作目は、
JUJUの『ありがとう』です。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪「ありがとう」♪

この曲は映画「ツナグ」の主題歌にもなってます。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪『ツナグ』予告」♪

By kentathu

それでは、Aさんの話です。
追記を読む(MORE)に進んで下さい。
親が離婚して、親父のいない俺にとっては爺さんは親父と同じ存在だった。俺にたくさんの事を教え、大酒飲みだった爺さん。
幼い頃は2人で温泉行ったり、地元の美味しいお店に食べに行ったり、とにかく俺も爺さんが好きだった。
小一から始めた剣道の大会があったなら爺さんはいつも婆ちゃんと一緒に応援に来てくれた。
あんまり強くなかった俺の試合をいつも見に来てくれた爺さんに感謝しかなかった。
無事に中学も卒業して、高校も剣道を続けることにした。
入部してから先輩に俺だけ怒鳴られたり、練習以外の道場掃除やお茶の準備で手際が悪く不器用な俺はとにかく怒鳴られた。
使えない、のろま。よく剣道を続けてこれたな。罵られても何も言えない自分がそこにはいた。
剣道をすることで得た楽しさが日に日に薄れていった。試合でも勝てずに、もどかしさが俺の心を完全に支配していた。
クラスでも、いじめに近いようなことをされた。何も出来なくて、されるがままだった。学校なんて面白くなかった。地獄だった。
試合で勝ちたい、暴れたい。それだけが頭の中を支配して試合を楽しむことを忘れていた。
上手くいかないことで家族に当たった。爺さんにも当たってしまった。

今考えると、ちっちゃかった。
ちっぽけなプライドが邪魔して、素直になれない自分がいたんだ。
高1の冬、爺さんが入院した。大雪が降ったから高校にも行けないので爺さんと昔話をしながら雪だるまでも作って謝ろうと思ってた。
でも、叶わなかった。俺と爺さんの住んでる村の病院じゃなくて市の病院に入院した。

部活終わりは必ず爺さんの見舞いに行った。
村にすぐ帰るから、が口癖だった。
俺も、早く帰って家族みんなでメシを食おうって爺さんを励ました。
爺さんの病名は家族からも聞かされなかった。

それから、1ヶ月もしない3月9日。爺さんは深夜に心肺停止になって、もう脳だけが生きているだけの状態になってしまった。
ずっと爺さんの冷たい手を握り続けた。でも、爺さんは帰ってくることは無かった。そのまま、息を引き取った。

葬式はほとんど覚えてない。孫代表で俺が別れの言葉を書いて読んだ。じいさんの遺影に土下座した。
出来の悪い孫でごめん。爺さん孝行が出来なくてごめん。とにかく、もう返事は返ってこないはずなのに俺は爺さんに謝り続けた。
何度もごめんを繰り返した。畳の上に俺の大粒の涙がこぼれた。謝りきれなかった。


爺さんがいなくなってからは、何をしてもやる気さえ起きなかった。
学校もただなんとなく過ごして、剣道も適当だった。爺さんがいないなんて意味が無い。絶望だけが支配していた。
もうクラスでも孤立していた俺は、遂に自殺して楽になろうって決意した。剣道を辞めて、毒でも飲んで死のうって決めた。

そんな中、爺さんが使っていた軽トラが業者に引き取られることになった。
軽トラの中に荷物が残ってないか業者が確認していたら、何かを手に持って俺に近づいて来た。

それは、俺が小学校1年生の入学式の朝に撮った写真だった。懐かしかった。笑っている爺さんとランドセルをからって堂々としてる俺。

優しいお爺さんだね。軽トラのサンバイザーに挟まってたんだよ。って業者は言って俺に写真を握らせた。そして、爺さんの軽トラは引き取られていった。

少し寂しかった。爺さんの畑仕事手伝いの時は、俺は後ろに乗って爺さんの畑仕事の手伝いによく行ってたからだと思う。
ひとりになった後、爺さんの写真を見た。手から写真が落ちて裏面が表になった状態で俺は写真を拾い上げた。その後ろに何か書かれてた。
メッセージらしき文章を読み終わると、涙が止まらなくて嗚咽を出して泣いた。

○○!
これを見てるってことは今、○○はすごく苦しんでいるんだと思う。
負けるな!挫けるな!悲しい時は顔を上げろ、泣く時は泣け、何があっても堂々と。それが男ぞ、大将だ。
剣道も今は苦しいだろうけど、お前ならなにか一つ大きな仕事で成功できる!
頼んだぞ。 爺より


爺さん、あんたのおかげで俺は自殺を止めて、もう1回頑張ろうって思えたんだ。

剣道も引退した。俺の剣道人生は爺さんのおかげで11年も剣道出来たよ。

次は、俺の夢を応援してくれよな。看護師になって、誰もなれない立派な看護師になるから空の上から応援してよね。
爺さんよりも、立派な男になってやるから。


Aより

謹賀新年 今年も誰かのために

2017-01-01 18:31:11 | 心に伝わるback Music
新年あけましておめでとうございます。
ご無沙汰しています、
kentathuです。


心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。
86作目は、
DREAMS COME TRUEの「何度でも」です。

(パソコンの方はCtrlキーを押しながら下記画像をクリックして下さい。曲が流れます)
♪何度でも♪

今回は知っている方も多いと思いますが、
大晦日の出来事が話題となり映画にもなった話です。
長文の為、時間が有る時に続き(MORE)に進んで下さい。
【一杯のかけそば】

この物語は、今から35年ほど前の12月31日、
札幌の街にあるそば屋「北海亭」での出来事から始まる。

そば屋にとって一番のかき入れ時は大晦日である。
北海亭もこの日ばかりは朝からてんてこ舞の忙しさだった。
いつもは夜の12時過ぎまで賑やかな表通りだが、
夕方になるにつれ家路につく人々の足も速くなる。
10時を回ると北海亭の客足もぱったりと止まる。
頃合いを見計らって、人はいいのだが無愛想な主人に代わって、
常連客から女将さんと呼ばれているその妻は、
忙しかった1日をねぎらう、大入り袋と土産のそばを持たせて、
パートタイムの従業員を帰した。
最後の客が店を出たところで、そろそろ表の暖簾を下げようかと
話をしていた時、入口の戸がガラガラガラと力無く開いて、
2人の子どもを連れた女性が入ってきた。
6歳と10歳くらいの男の子は真新しい揃いのトレーニングウェア姿で、
女性は季節はずれのチェックの半コートを着ていた。
「いらっしゃいませ!」
と迎える女将に、その女性はおずおずと言った。
「あのー……かけそば……1人前なのですが……よろしいでしょうか」
後ろでは、2人の子ども達が心配顔で見上げている。
「えっ……えぇどうぞ。どうぞこちらへ」
暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、
カウンターの奥に向かって、
「かけ1丁!」

と声をかける。
それを受けた主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、
「あいよっ! かけ1丁!」
とこたえ、玉そば1個と、さらに半個を加えてゆでる。
玉そば1個で1人前の量である。
客と妻に悟られぬサービスで、大盛りの分量のそばがゆであがる。
テーブルに出された1杯のかけそばを囲んで、
額を寄せあって食べている3人の話し声が
カウンターの中までかすかに届く。
「おいしいね」
 と兄。
「お母さんもお食べよ」
と1本のそばをつまんで母親の口に持っていく弟。
やがて食べ終え、150円の代金を支払い、
「ごちそうさまでした」
と頭を下げて出ていく母子3人に、
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
と声を合わせる主人と女将。
新しい年を迎えた北海亭は、
相変わらずの忙しい毎日の中で1年が過ぎ、
再び12月31日がやってきた。
前年以上の猫の手も借りたいような1日が終わり、
10時を過ぎたところで、店を閉めようとしたとき、
ガラガラガラと戸が開いて、
2人の男の子を連れた女性が入ってきた。
女将は女性の着ているチェックの半コートを見て、
1年前の大晦日、最後の客を思いだした。
「あのー……かけそば……1人前なのですが……よろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ。こちらへ」

女将は、昨年と同じ2番テーブルへ案内しながら、
「かけ1丁!」
 と大きな声をかける。
「あいよっ! かけ1丁」
と主人はこたえながら、
消したばかりのコンロに火を入れる。
「ねえお前さん、サービスということで3人前、出して上げようよ」

そっと耳打ちする女将に、
「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」

と言いながら玉そば1つ半をゆで上げる夫を見て、
「お前さん、仏頂面してるけどいいとこあるねえ」
とほほ笑む妻に対し、
相変わらずだまって盛りつけをする主人である。
テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、
カウンターの中と外の2人に聞こえる。
「……おいしいね……」
「今年も北海亭のおそば食べれたね」
「来年も食べれるといいね……」

食べ終えて、150円を支払い、
出ていく3人の後ろ姿に
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
その日、何十回とくり返した言葉で送り出した。

商売繁盛のうちに迎えたその翌年の大晦日の夜、
北海亭の主人と女将は、たがいに口にこそ出さないが、
九時半を過ぎた頃より、そわそわと落ち着かない。
10時を回ったところで従業員を帰した主人は、
壁に下げてあるメニュー札を次々と裏返した。
今年の夏に値上げして「かけそば200円」と書かれていたメニュー札が、
150円に早変わりしていた。
2番テーブルの上には、
すでに30分も前から「予約席」の札が女将の手で置かれていた。
10時半になって、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、
母と子の3人連れが入ってきた。
兄は中学生の制服、弟は去年兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。
2人とも見違えるほどに成長していたが、
母親は色あせたあのチェックの半コート姿のままだった。
「いらっしゃいませ!」
と笑顔で迎える女将に、母親はおずおずと言う。
「あのー……かけそば……2人前なのですが……よろしいでしょうか」
「えっ……どうぞどうぞ。さぁこちらへ」
と2番テーブルへ案内しながら、
そこにあった「予約席」の札を何気なく隠し、
カウンターに向かって
「かけ2丁!」
 それを受けて
「あいよっ! かけ2丁!」
とこたえた主人は、玉そば3個を湯の中にほうり込んだ。
2杯のかけそばを互いに食べあう母子3人の明るい笑い声が聞こえ、
話も弾んでいるのがわかる。
カウンターの中で思わず目と目を見交わしてほほ笑む女将と、
例の仏頂面のまま「うん、うん」とうなずく主人である。
「お兄ちゃん、淳ちゃん……
      今日は2人に、お母さんからお礼が言いたいの」
「……お礼って……どうしたの」
「実はね、死んだお父さんが起こした事故で、
8人もの人にけがをさせ迷惑をかけてしまったんだけど
……保険などでも支払いできなかった分を、毎月5万円ずつ払い続けていたの」
「うん、知っていたよ」

女将と主人は身動きしないで、じっと聞いている。
「支払いは年明けの3月までになっていたけど、
実は今日、ぜんぶ支払いを済ますことができたの」
「えっ! ほんとう、お母さん!」
「ええ、ほんとうよ。
お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれてるし、
淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、
お母さん安心して働くことができたの。
よくがんばったからって、会社から特別手当をいただいたの。
それで支払いをぜんぶ終わらすことができたの」
「お母さん! お兄ちゃん! よかったね! 
でも、これからも、夕飯のしたくはボクがするよ」
「ボクも新聞配達、続けるよ。淳! がんばろうな!」
「ありがとう。ほんとうにありがとう」
「今だから言えるけど、淳とボク、お母さんに内緒にしていた事があるんだ。
それはね……11月の日曜日、淳の授業参観の案内が、学校からあったでしょう。
……あのとき、淳はもう1通、先生からの手紙をあずかってきてたんだ。
淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、
全国コンクールに出品されることになったので、
参観日に、その作文を淳に読んでもらうって。
先生からの手紙をお母さんに見せれば
……むりして会社を休むのわかるから、淳、それを隠したんだ。
そのこと淳の友だちから聞いたものだから……ボクが参観日に行ったんだ」
「そう……そうだったの……それで」
「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、
全員に作文を書いてもらいましたところ、
淳くんは、『一杯のかけそば』という題で書いてくれました。
これからその作文を読んでもらいますって。
『一杯のかけそば』って聞いただけで北海亭でのことだとわかったから
……淳のヤツなんでそんな恥ずかしいことを書くんだ! 
と心の中で思ったんだ。
作文はね……お父さんが、交通事故で死んでしまい、
たくさんの借金が残ったこと、
お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いていること、
ボクが朝刊夕刊の配達に行っていることなど……ぜんぶ読みあげたんだ。

そして12月31日の夜、3人で食べた1杯のかけそばが、とてもおしかったこと。
……3人でたった1杯しか頼まないのに、
おそば屋のおじさんとおばさんは、ありがとうございました! どうかよいお年を!
って大きな声をかけてくれたこと。
その声は……負けるなよ! 頑張れよ! 生きるんだよ! 
って言ってるような気がしたって。

それで淳は、大人になったら、
お客さんに、頑張ってね! 幸せにね! って思いを込めて、ありがとうございました! 
と言える日本一の、おそば屋さんになります。
って大きな声で読みあげたんだよ」

カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将の姿が見えない。

カウンターの奥にしゃがみ込んだ2人は、
1本のタオルの端を互いに引っ張り合うようにつかんで、
こらえきれず溢れ出る涙を拭っていた。
「作文を読み終わったとき、先生が、淳くんのお兄さんが
お母さんにかわって来てくださってますので、
ここで挨拶をしていただきましょうって……」
「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」

「突然言われたので、初めは言葉が出なかったけど
……皆さん、いつも淳と仲よくしてくれてありがとう。
……弟は、毎日夕飯のしたくをしています。
それでクラブ活動の途中で帰るので、
迷惑をかけていると思います。
今、弟が『一杯のかけそば』と読み始めたとき
……ぼくは恥ずかしいと思いました。
……でも、胸を張って大きな声で読みあげている弟を見ているうちに、
1杯のかけそばを恥ずかしいと思う、
その心のほうが恥ずかしいことだと思いました。

あの時……1杯のかけそばを頼んでくれた母の勇気を、
忘れてはいけないと思います。
……兄弟、力を合わせ、母を守っていきます。
……これからも淳と仲よくして下さい、って言ったんだ」


しんみりと、互いに手を握ったり、
笑い転げるようにして肩を叩きあったり、
昨年までとは、打って変わった
楽しげな年越しそばを食べ終え、300円を支払い
「ごちそうさまでした」
と、深々と頭を下げて出て行く3人を、
主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、
「ありがとうございました! どうかよいお年を!」
と送り出した。

また1年が過ぎて――。
北海亭では、夜の9時過ぎから「予約席」の札を
2番テーブルの上に置いて待ちに待ったが、
あの母子3人は現れなかった。
次の年も、さらに次の年も、
2番テーブルを空けて待ったが、3人は現れなかった。
北海亭は商売繁盛のなかで、店内改装をすることになり、
テーブルや椅子も新しくしたが、
あの2番テーブルだけはそのまま残した。
真新しいテーブルが並ぶなかで、
1脚だけ古いテーブルが中央に置かれている。
「どうしてこれがここに」
と不思議がる客に、
主人と女将は『一杯のかけそば』のことを話し、
このテーブルを見ては自分たちの励みにしている、
いつの日か、あの3人のお客さんが、
来てくださるかも知れない、
その時、このテーブルで迎えたい、と説明していた。
その話が「幸せのテーブル」として、客から客へと伝わった。
わざわざ遠くから訪ねてきて、そばを食べていく女学生がいたり、
そのテーブルが、空くのを待って注文をする若いカップルがいたりで、
なかなかの人気を呼んでいた。
それから更に、数年の歳月が流れた12月31日の夜のことである。
北海亭には同じ町内の商店会のメンバーで
家族同然のつきあいをしている仲間達が
それぞれの店じまいを終え集まってきていた。
北海亭で年越しそばを食べた後、
除夜の鐘の音を聞きながら仲間とその家族がそろって
近くの神社へ初詣に行くのが5~6年前からの恒例となっていた。
この夜も9時半過ぎに、魚屋の夫婦が刺身を
盛り合わせた大皿を両手に持って入って来たのが
合図だったかのように、いつもの仲間30人余りが
酒や肴を手に次々と北海亭に集まってきた。
「幸せの2番テーブル」の物語の由来を知っている仲間達のこと、
互いに口にこそ出さないが、
おそらく今年も空いたまま新年を迎えるであろう
「大晦日10時過ぎの予約席」をそっとしたまま、
窮屈な小上がりの席を全員が少しずつ身体を
ずらせて遅れてきた仲間を招き入れていた。

海水浴のエピソード、孫が生まれた話、大売り出しの話。
賑やかさが頂点に達した10時過ぎ、
入口の戸がガラガラガラと開いた。

幾人かの視線が入口に向けられ、全員が押し黙る。
北海亭の主人と女将以外は誰も会ったことのない、
あの「幸せの2番テーブル」の物語に出てくる薄
手のチェックの半コートを着た若い母親と
幼い二人の男の子を誰しもが想像するが、
入ってきたのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。
ホッとした溜め息が漏れ、賑やかさが戻る。
女将が申し訳なさそうな顔で
「あいにく、満席なものですから」
断ろうとしたその時、和服姿の婦人が深々と頭を下げ入ってきて
二人の青年の間に立った。
店内にいる全ての者が息を呑んで聞き耳を立てる。

「あのー……かけそば……3人前なのですが……よろしいでしょうか」
その声を聞いて女将の顔色が変わる。
十数年の歳月を瞬時に押しのけ、
あの日の若い母親と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。
カウンターの中から目を見開いてにらみ付けている主人と
今入ってきた3人の客とを交互に指さしながら
「あの……あの……、おまえさん」
と、おろおろしている女将に青年の一人が言った。

「私達は14年前の大晦日の夜、
親子3人で1人前のかけそばを注文した者です。
あの時、一杯のかけそばに励まされ、
3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。
その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。
私は今年、医師の国家試験に合格しまして
京都の大学病院に小児科医の卵として勤めておりますが、
年明け4月より札幌の総合病院で勤務することになりました。
その病院への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、
おそば屋さんにはなりませんでしたが、
京都の銀行に勤める弟と相談をしまして、
今までの人生の中で最高の贅沢を計画しました。
それは大晦日に母と3人で札幌の北海亭さんを訪ね、
3人前のかけそばを頼むことでした」


うなずきながら聞いていた女将と主人の目からどっと涙があふれ出る。

入口に近いテーブルに陣取っていた八百屋の大将が
そばを口に含んだまま聞いていたが、
そのままゴクッと飲み込んで立ち上がり
「おいおい、女将さん。何してんだよお。
10年間この日のために用意して待ちに待った
『大晦日10時過ぎの予約席』じゃないか。ご案内だよ。ご案内」

八百屋に肩をぽんと叩かれ、気を取り直した女将は
「ようこそ、さあどうぞ。 おまえさん、2番テーブルかけ3丁!」
仏頂面を涙でぬらした主人、
「あいよっ! かけ3丁!」
期せずして上がる歓声と拍手の店の外では、
先程までちらついていた雪もやみ、
新雪にはね返った窓明かりが照らしだす
『北海亭』と書かれた暖簾を、ほんの一足早く吹く睦月の風が揺らしていた。
一杯のかけそば

X JAPAN - ENDLESS RAIN

2016-06-17 06:30:33 | 心に伝わるback Music
皆さんはご存じだろうか、
1998年通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、
隅田川沿いに2~3キロのファンの列が出来たこを。
 
最近、毎日の様に築地本願寺の前を通ります。
行ったこと無いと思っていたけど、
思い出しました。

元「X JAPAN」のギタリスト
hide(本名:松本秀人:33)の自殺?事故?の話です。


心に伝わるback Musicとして
記事を書いてます。

85作目は、
X JAPANの「ENDLESS RAIN 」です。
(下記画像をクリックして下さい。)

♪「ENDLESS RAIN」♪

By kentathu

それでは、X JAPAN」のギタリストhide(本名:松本秀人)の話です。
追記を読む(MORE)に進んで下さい。

1998(平成10)年5月2日、6:30、
元「X JAPAN」のギタリスト・hide(本名:松本秀人:33)は
実弟でマネージャーの松本裕士と一緒に
東京・港区南麻布2-1-21ノアーズアーク南麻布マンション301号の自宅へ帰宅した。

酒に酔っていた。約1時間後、
同棲中の女性がドアノブにタオルを巻き付け、
床に座った状態で縊死しているhideの姿を発見した。

その後、病院に搬送されたが、8:52に死亡が確認された。
遺書はなかったが、警察は自殺と断定した。

ギタリストたちの多くは重いギターを首にかけることからくる肩こりに悩まされる。
hideも生前、肩こりに悩まされ母が届けてくれた湿布をいつも肩に貼っていたという。

hideの通っていた整体師は、
彼の顎にタオルをかけ上方へ牽引する施術を行っていた。
実弟の話によるとhideはたびたび一人でこの牽引施術を行っていたという。
彼の死亡現場の状況と、この牽引施術はまったく同じだった。

hideの遺体は5月3日に東京・中央区築地の築地本願寺に安置された。
夕方、YOSHIKIがロサンゼルスから帰国し
成田空港から築地本願寺に直行、遺体と対面をした。
YOSHIKIは最初これを「悪い冗談じゃないか」とも思っていたが、
飛行機の中での正式な報道を見た瞬間に現実であることを受け入れ号泣したという。

翌日5月4日、週が明け本格的にワイドショーなどで大々的に取り上げられる。
築地本願寺にファンが集まり始め、その数は千人規模となる。
夕方にYOSHIKIが寺の正面に姿を現し、報道陣を前にメッセージを発表した。
当時のニュース
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5月5日には、関係者のみ300人を集め密葬が執り行われた。
その間もファンは絶え間無く押し寄せ、その数は数千人にも膨れ上がった。
また、疲労と心労が重なったファンが次々と倒れ、救急車で病院に搬送された。
さらに、「hideが自殺」と報道されていたために
ファンの後追い自殺が東京・調布市や千葉市、築地本願寺境内で相次いだ。
そのため、翌日には警視庁の要請で元「X JAPAN」のメンバーが記者会見を開き、
自殺を思いとどまるように訴えた。
このような後追い自殺を防ぐためか、
後に状況証拠から自殺と考えられるような芸能人が現れても
極力「原因を調査中」などとして「自殺」という報道を避けるようになった(2007年の坂井泉水の急死など)。


5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、
連日ファンが大挙して押し寄せた。
中には単なる通行人や野次馬もいたとされるが、
通夜、告別式に5万人近くが集まったとされ、
隅田川沿いに2~3キロのファンの列が出来たことも報道されていた。


「ファンは列に並ぶ際、パニックになるような事も無く、
むしろ近隣住民の迷惑にならないように
ゴミ拾いまで進んで行う素行の良さであった」と
葬儀翌日の朝日新聞・天声人語で語られているが、
実際は各所で将棋倒しなどの事故、警察の対応の悪さによるパニックも起きている。
これまで有名人の告別式などが催されたことがあるが、
美空ひばりや尾崎豊の告別式に訪れた人の数を超え、
これほどまでファンが集まったのは戦後の日本では例が無い。


5月7日の告別式はテレビで生中継された。
告別式には、脱退したTOSHI、TAIJIを含む元「X JAPAN」メンバーをはじめ、
親交のあった音楽仲間や業界関係者が列席した。
築地本願寺開山以来のグランドピアノ持ち込みによる
YOSHIKIの伴奏で、TOSHIがX JAPANの『Forever Love』を歌った。



hideの『Good Bye』が流される中、出棺される。
道路に交通規制が掛けられ一般車両を完全に止めた状態であったが、
ファンが大挙して道路に広がり霊柩車を追いかける者まで現れる非常事態となり、
築地本願寺周辺がパニック状態になった。

その後、hideは渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された。
法名「秀徳院釋慈音」(しゅうとくいん しゃくじおん)。
遺骨は四十九日法要をもって、神奈川・三浦市の三浦霊園に納骨され、
一部はロサンゼルスの海に当時の「zilch」のメンバーや松本裕士によって散骨されている。

hideの墓には大きく『hide』の文字が書かれており
今でもファンによる多くの献花が飾られている。
また、墓石には愛用のギターを模したレリーフの隣に事実上
遺作となった『HURRY GO ROUND』の歌詞と
両親から息子へのメッセージが刻まれているほか、
記帳用のノートも設置されている。
なお、墓にはファンによる墓地の荒廃を防ぐために
松本家からの注意書きも設置されており、
献花は包装をはがすこと、線香を束であげない、
水、酒などの液体を墓石にかけないといったルールが記されている。


♪hide「 GOOD BYE」♪