豊前国分寺には男性僧侶20人が奉仕する「僧寺」と女性僧侶(尼)10人が奉仕する「尼寺」があり、僧寺は
「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれましたが、ここで紹介の国分寺は僧寺を指します。
当時、豊前国分寺は東西約160m、南北160~220mほどの広大な範囲を寺域とし、その内側に南から
北へ一直線に南門・中門・金堂・講堂が立ち並び、金堂の南東側に七重塔がそびえ立っていたものとみられています。
因みに尼寺については僧寺の東方200mほどの台地上にあったとされますが、そのことを示す後世の石碑などが
残されてはいるものの、伽藍配置などの詳しい様子はわかっていません。
【豊前国分寺のシンボル】
《三重塔》ひとくちメモ
三重塔は、紅色の体躯と金色に輝く相輪が目映い、豊前国分寺のシンボルですが、創建当初は7重の規模を誇り
現在以上に目を引く存在であったと考えられています。なお現在の塔は、明治29年(1896年)に建立され
たもので、当時は、「明治記念大宝塔」と呼んでいました。九州では希少な層塔建築とのことで昭和32年(1957年)
に福岡県の有形文化財(建造物)に指定され、昭和60年(1985年)には全面解体修理が行われました。
「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれましたが、ここで紹介の国分寺は僧寺を指します。
当時、豊前国分寺は東西約160m、南北160~220mほどの広大な範囲を寺域とし、その内側に南から
北へ一直線に南門・中門・金堂・講堂が立ち並び、金堂の南東側に七重塔がそびえ立っていたものとみられています。
因みに尼寺については僧寺の東方200mほどの台地上にあったとされますが、そのことを示す後世の石碑などが
残されてはいるものの、伽藍配置などの詳しい様子はわかっていません。
【豊前国分寺のシンボル】
《三重塔》ひとくちメモ
三重塔は、紅色の体躯と金色に輝く相輪が目映い、豊前国分寺のシンボルですが、創建当初は7重の規模を誇り
現在以上に目を引く存在であったと考えられています。なお現在の塔は、明治29年(1896年)に建立され
たもので、当時は、「明治記念大宝塔」と呼んでいました。九州では希少な層塔建築とのことで昭和32年(1957年)
に福岡県の有形文化財(建造物)に指定され、昭和60年(1985年)には全面解体修理が行われました。