前夜、故郷の街で中学校の同窓会あり……半世紀ぶりに…皆さんに会えて……酒宴を楽しみました‼…☺帰り道、小倉駅での待ち時間に……昨夜の酔い醒ましにと…☺学生時代によく遊んだ懐かしの馴染み深い商店街……京町~魚町界隈をそぞろ歩きました。そして、目にしたのが……銀天街発祥の地の石塔でした。
・・・・・我が故郷、福岡県京都郡みやこ町には・・・・・
この町の自然になじんだ・・・天平文化の薫りを今に伝える文化遺産・・・
【豊前国分寺跡】
現在の豊前国分寺跡は史跡公園として昭和60年度から10年間をかけ整備されました。
公園内には発掘調査により確認された行動基壇を復元したほか、調査で確認された
建物跡地には古代建築風の東屋を設けています。
植栽は、梅をちゅうしんに万葉植物を植え梅が盛りとなる2月下旬頃に史跡を生か
した振興行事として「みやこ町三重塔まつり」も行われています。
なお、史跡公園の案内施設として国分寺案内所が設けられています。公園利用の際は
情報収集や休憩・補助施設として活用されています。
○豊前国分寺跡史跡公園鳥瞰図○
○国分寺案内書の利用案内○
※休館日 :毎週月曜日及び年末年始(12月29日~1月4日)
※開館時間:9:00~16:00(ただし12:00~13:00については休憩)
※電 話 :0930:-33-5654
○豊前国分寺跡と周辺の主要遺跡等位置図○
◆豊前国分寺跡に関するお問い合わせ◆
【みやこ町歴史民俗博物館】 〒824-0121 福岡県京都郡みやこ町豊津1122-13
TEL : 0930-33-4666/FAX :0930-33-4667
《尚、以上の事象は現地案内所より頂いた資料を引用・転載したものであります。》
この町の自然になじんだ・・・天平文化の薫りを今に伝える文化遺産・・・
【豊前国分寺跡】
現在の豊前国分寺跡は史跡公園として昭和60年度から10年間をかけ整備されました。
公園内には発掘調査により確認された行動基壇を復元したほか、調査で確認された
建物跡地には古代建築風の東屋を設けています。
植栽は、梅をちゅうしんに万葉植物を植え梅が盛りとなる2月下旬頃に史跡を生か
した振興行事として「みやこ町三重塔まつり」も行われています。
なお、史跡公園の案内施設として国分寺案内所が設けられています。公園利用の際は
情報収集や休憩・補助施設として活用されています。
○豊前国分寺跡史跡公園鳥瞰図○
○国分寺案内書の利用案内○
※休館日 :毎週月曜日及び年末年始(12月29日~1月4日)
※開館時間:9:00~16:00(ただし12:00~13:00については休憩)
※電 話 :0930:-33-5654
○豊前国分寺跡と周辺の主要遺跡等位置図○
◆豊前国分寺跡に関するお問い合わせ◆
【みやこ町歴史民俗博物館】 〒824-0121 福岡県京都郡みやこ町豊津1122-13
TEL : 0930-33-4666/FAX :0930-33-4667
《尚、以上の事象は現地案内所より頂いた資料を引用・転載したものであります。》
〇豊前国分寺の歴史の歴史と遺される文化遺産
豊前国分寺が整備された正確な時期については分かっていませんが、『続日本紀
(しょくにほんぎ)』の記述などから天平勝宝8年(756年)には主な建物が完成して
いたようです。その後宝亀年間(770~781年)までに七堂伽藍(塔・金堂・講堂
・中門・南門・食堂・僧坊)が整備され、以後この地には壮麗な建物群が立ち並び
仏教文化が花開いたものと思われます。
平安時代に入り天台宗や山岳修行を採用して活発な活動を展開したようですが、
国衙の支援が滞りがちになった鎌倉時代以降、諸国の国分寺同様、その活動は衰退に
向かいました。ただ、法灯が絶えることはなく中世寺院として存続していたようですが
天正年間(1573~92)に戦国大名大友氏の戦火により伽藍はすべて焼失したと伝えら
れています。
その後真言律僧・英賢により寺跡に草庵が構えられ、本尊に薬師如来を安置して真言
宗寺院として再興が図られました。英賢らは伽藍再興の勧進を豊前各地で行いましたが、
やがてこれに小倉藩の支援も加わって本格的な再建が進み、寛文6年(1666)本堂を
皮切りに鐘楼門・庫裡(1684年・85年)、弁天社(1687年)、護摩堂(1693年)など
新しい伽藍が少しずつ整備されてゆきました。
めいじ29年(1896年)には宝塔(三重塔)が建立されて往事を偲ばせるに十分な復興
が完了、京都(みやこ)地域における名刹の面影を回復しました。昭和51年(1976年)
には現境内とその周辺が国の史跡に指定され、文化遺産としての価値も高く評価されました。
〇豊前国分寺跡 伽藍配置想定図
豊前国分寺には、1200年余の星霜を乗り越えて伝えられた貴重な文化遺産が幾つか遺され
ており、以下にそのうちの代表的なものをご紹介します。
〇胎蔵界曼荼羅図(たいぞうかいまんだらず)
237㎝×164㎝もある大型の仏画で絹本軸装(けんほんじくそう)。密教儀礼で使用され
るもので、仏の悟りの世界を図化したものとされます。14C後半(南北朝時代)頃の制作
とみられており福岡県内最古のものです。
〇賢劫千仏図(けんこうせんぶつず)
胎蔵界曼荼羅とほぼ同規模の仏画で近世以前の制作とみられています。仏名会と呼ばれる
過去・現在・未来世の各世千仏、合わせて三千仏の名を唱え懺悔する法会に使われる仏画
で本来は3幅あったと見られますが、現在は現在世=賢劫千仏図のみ遺されます。
豊前国分寺跡の発掘調査について、、、、、
豊前国分寺跡伽藍配置想定図(現況に発掘調査結果等を勘案作成された。)
国分寺の敷地内では、昭和49年と60~62年の2回、学術目的の発掘調査が行われました。
この調査により国分寺創建時(奈良時代:8C)はもとより室町時代(14~16C)までの
遺構や遺物が確認され、国分寺が各時代にわたって様々な活動を展開していた様子が明ら
かになりました。
奈良~平安時代のものとしては講堂とみられる建物の基礎が確認され、基礎は地山を
削りだして粗形を作り出し「塼」(せん)と呼ばれるレンガ積みのおしゃれなものであったことが
確認されています。
また、屋根に葺かれていた瓦類も出土しましたが、軒先瓦の文様から太宰府や畿内・朝鮮半島
(百済・新羅・高句麗)など内外の文化や技法の影響を受け制作されたものであることがわかり
ました。
なお、一部の河原に付着していた赤色顔料から、当時の伽藍が赤く彩色されていたことが判明し
、奈良時代の豊前国分寺が「みやこぶり」を示す瀟洒(しょうしゃ)なお寺であったことが明らか
になりました。
※出土した瓦片(左:大宰府系 右:畿内系)※
※鬼瓦片(大宰府系)
豊前国分寺跡伽藍配置想定図(現況に発掘調査結果等を勘案作成された。)
国分寺の敷地内では、昭和49年と60~62年の2回、学術目的の発掘調査が行われました。
この調査により国分寺創建時(奈良時代:8C)はもとより室町時代(14~16C)までの
遺構や遺物が確認され、国分寺が各時代にわたって様々な活動を展開していた様子が明ら
かになりました。
奈良~平安時代のものとしては講堂とみられる建物の基礎が確認され、基礎は地山を
削りだして粗形を作り出し「塼」(せん)と呼ばれるレンガ積みのおしゃれなものであったことが
確認されています。
また、屋根に葺かれていた瓦類も出土しましたが、軒先瓦の文様から太宰府や畿内・朝鮮半島
(百済・新羅・高句麗)など内外の文化や技法の影響を受け制作されたものであることがわかり
ました。
なお、一部の河原に付着していた赤色顔料から、当時の伽藍が赤く彩色されていたことが判明し
、奈良時代の豊前国分寺が「みやこぶり」を示す瀟洒(しょうしゃ)なお寺であったことが明らか
になりました。
※出土した瓦片(左:大宰府系 右:畿内系)※
※鬼瓦片(大宰府系)
現在の豊前国分寺山門
鐘楼門
現在の豊前国分寺のシンボル《三重塔》
豊前国分寺三重塔の建立に尽力した先人を紹介します。
〇宮本孝梁(みやもと こうりょう)
豊前国分寺中興19世住職。寺のすぐ近く国作村に生まれ、幼少時よりその才覚を
認められ藩の護院・成願寺興与に附き修学研鑽。高野山に登り最終的に僧正位を得る。
その学識を買われ帰郷後、地元の小学校長や行政職を務めるなどした。
明治18年三重塔建立を発願し、建立資金等の調達のため私財のほとんどを提供。
不足分は官公署はもとより近隣の村人へ一紙半銭の喜捨を呼びかけ奔走10年目に
して悲願を達成した。昭和2年(1927年)、86歳にて没する。
〇緒方義高(おがた よしたか)
三重塔建立を差配した大工棟梁。生年等は不詳だが、壮年期には豊津藩庁舎の棟梁
(御大工積役)を務めるなど豊津地域での名工として知られた。
宮本師よりの依頼を受けて社寺建築を独力で研究。苦心の末に塔建立を果たしたが
、竣工直前の明治28年9月没。境内に顕彰墓碑が築かれている。
鐘楼門
現在の豊前国分寺のシンボル《三重塔》
豊前国分寺三重塔の建立に尽力した先人を紹介します。
〇宮本孝梁(みやもと こうりょう)
豊前国分寺中興19世住職。寺のすぐ近く国作村に生まれ、幼少時よりその才覚を
認められ藩の護院・成願寺興与に附き修学研鑽。高野山に登り最終的に僧正位を得る。
その学識を買われ帰郷後、地元の小学校長や行政職を務めるなどした。
明治18年三重塔建立を発願し、建立資金等の調達のため私財のほとんどを提供。
不足分は官公署はもとより近隣の村人へ一紙半銭の喜捨を呼びかけ奔走10年目に
して悲願を達成した。昭和2年(1927年)、86歳にて没する。
〇緒方義高(おがた よしたか)
三重塔建立を差配した大工棟梁。生年等は不詳だが、壮年期には豊津藩庁舎の棟梁
(御大工積役)を務めるなど豊津地域での名工として知られた。
宮本師よりの依頼を受けて社寺建築を独力で研究。苦心の末に塔建立を果たしたが
、竣工直前の明治28年9月没。境内に顕彰墓碑が築かれている。