Farmers Plant Seeds

🤳《不易流行》🤳あしたの詩を唄おうよ…🎵

 故郷は遠くにありて・・・忘れかけてた【遠い背景の記憶】原点回帰[206]【あゝりんどうの花咲けど】 

2023-11-28 | こころの旅



    あゝりんどうの花咲けど (昭和40年学習研究社「美しい十代」10月号P90~97)
第二章:佐千夫の目は燃えた。玲子は本能で、佐千夫の感情のあらし
      を直感した。玲子は目を閉じ、佐千夫の腕に力がこもる・・・・・・・
 今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 【1】P20~P22 (原本P90~P92)の紹介です。
 玲子の父母に会うのに、佐千夫はやはりある気おくれとはじらいをおぼえていた。けれども、ふたりの交際のこれからの
ために、会っておく必要があった。玲子はいくつもの予備知識を佐千夫にあたえ、また父母のユーモラスな面を語って、
佐千夫の気持ちをやわらげようとした。佐千夫以上に玲子は、佐千夫が父母に好感をもたれることを願っていた。また
父母が佐千夫に尊敬されてほしかった。
 それまで一度も男の友だちを連れてきたことがないだけに、父母は強い好奇心を示した。とくに母は、佐千夫の来訪を
おおげさに考えていたようだ。とわいえ、そこはやはりおとなで、じっさいに佐千夫があらわれたとき、父母は、玲子の
学校友だちの明子や節子が来たときと同じようにもてなした。佐千夫をさぐるような言動はせず、玲子のえらんだ友だち
だから信頼するという態度が、にじみ出た。

 玲子が予想していたよりも、佐千夫は落ち着いて父母と応待した。はきはきと話し、動作にもあいまいな点はなかった。
そこには少年らしい清潔さがあふれていた。かといってなれなれしくなく、また多くの少年たちのようにまだ未成年である
ということにあまえた様子を示さず、折り目正しかった。帰途、バスの停留所まで送っていきながら、玲子は言った。
 「父も母も、あなたを見て安心したと思う」「どうだかな?とにかくきらわれちゃたいへんだと思って、いっしょうけんめい
だった」と佐千夫は答え、つけ加えた。「でもおとうさんとおかあさん、とても仲がいいみたいだったね」「そうなのよ。とき
どきあたしがヤキモチやきたくなるくらい」期待どおり、玲子の父母は佐千夫に好意をもった。父はとくに、玲子が作法に
したがってたてたお茶をのんだときの佐千夫の態度にしきりに感心した。
 玲子は、茶の湯を母に習っている。母には教師の資格があった。しかしまさか、佐千夫にお茶をたてて出すのはめに
なろうとは思わなかったので、そういう場合の作法を言っていなかった。出された大きな茶わんを、佐千夫は両手でしっ
かりと握り、そのまま口にあててのみ、にがそうに顔をしかめ、前に置いただけである。
 「へんにてれたり、なまはんかにかじり知っているかたちにとらわれたりしなかった。青年らしくてよい」という父のことば
を聞きながら玲子は、父が「少年」と言わずに「青年」と言ったのに、妙に胸がときめいた。まもなく、今度は玲子が佐千夫
の家を訪れ、その母に会った。佐千夫の母は、予想よりはるかに若々しかった。まだ幼かったころの佐千夫のエピソード
を語ることばには、ひとりっ子の佐千夫への愛情がみちていた。上品な感じの人で、はたらいている未亡人にありがちな
とげとげしさはすこしもなかった。しばらく話をしていると、じぶんの母のようにあまえたくなるふんいきを、佐千夫の母は
もっていた。
 「きれいで、明るくって、あたまもよさそうだし、おまえにはもったいないくらいのお嬢さんだよ」母は佐千夫にそう言った。
ぼくが好きになったんだもの、すばらしいにきまっているじゃないか。佐千夫はそう思ったが、もちろんそんなことは母には
言わない。「ほんと?おかあさん、あたしを気に入ってくれた?」玲子は、顔を笑いにほころばせてくり返し念を押してうれ
しがった。佐千夫はうなずきながら、「でも、からだが弱そうなのが心配ね」とつけ加えた母のことばは、玲子には伝えな
かった。悲しませたくなかったからである。

 次回は【あゝりんどうの花咲けど】編集版 【2】P22~P25 (原本P92~P93)を紹介します。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 故郷は遠くにありて・・・忘れかけてた【遠い背景の記憶】原点回帰[205]【あゝりんどうの花咲けど】 

2023-11-24 | こころの旅

 今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P16~P18)【5】P134~P135の紹介です。

 もちろん、大学進学は、中学時代からの佐千夫の大きな悩みであった。「学資のことは心配せずに、学校へ進みな
さい」 母はいつもそう言う。母の愛情はわかる。しかし、それにあまえて、母に白髪をふえさせていいものだろうか。
ときには佐千夫は、母の期待が重く感じられることもあった。
 大学進学などやめてしまって、卒業と同時にどこかへ勤めて母子ふたりで平穏に暮らす、それがもっともいいように
思われることもある。しかし、その道はものたりない。まだ漠然としていてはっきりとしたかたちはとっていないが胸の
なかで燃えている野心と、あまりにもかけ離れている。佐千夫は、迷っていた。他のクラスメートのように受験勉強に
熱中できないのも、そのためかもしれなかった。
 玲子は言う。「おかあさんにとって、あなたは生きがいなのよ。はたらくことも、その生きがいに殉じているんだから、
たのしいし、しあわせなんじゃないかしら。おかあさんの言うとおりにしたほうがいいんじゃないかしら」「しかし、はたして
ぼくは、母の期待どおりになれるかどうか、あやしいんだ。自信がない。おふくろはぼくをかいかぶりすぎている」じぶんの
弱さや欠点は、佐千夫自身がもっともよく知っている。それがやがて表面に出てきたとき・・・母の夢はこわれる。それが
こわいのだ。
 佐千夫の悩みは、それだけではなかった。玲子には言っていない。はずかしくて、言えることではない。それはもう、
玲子と知り合う前から佐千夫の心をひきずりまわしている問題であった。貧しいながらも母子ふたり、かばいながら生きて
きた。そこへ、あの「くだもの屋のおやじ」があらわれたのだ。
 母の恋。
 父が死んで、五年たつ。母はまだ若い。母の勤めている病院で胃を切ったその「くだもの屋のおやじ」は、やもめである。
結ばれ合って、おかしくはない。だれにも、それをとがめだてする権利はない。祝福すべきであるとは、頭ではわかって
いる。しかし、感情はどうしてもついていかないのだ。強い反発をおぼえるのである。
 再婚の意志を母にほのめかされたとき、佐千夫は返事もせずに座を立ち、そのまま家を出た。夜おそく帰ってきた
佐千夫に、「バカな子だね、冗談よ」母はそういったが、冗談ではないことは、直感でわかった。反対すべき理由はない。
岡本謙三はいつもにこにこしており、いかにも善人そうな人だ。佐千夫にもやさしい。胃の手術がおわって退院して、
佐千夫の家に来るようになって、何回か碁の相手もした。三段であった父にくらべて、碁ははるかに弱い。負けるとムキ
になる点には、こどものような無邪気さがあった。
 母から母たちの気持ちをほのめかされて以来、佐千夫は岡本を避けはじめた。母からも、一歩遠ざかった。佐千夫は
無口になった。そんな佐千夫に、ふたりは遠慮しているようである。佐千夫の心を傷つけないように、慎重に行動してい
るようである。それがわかるだけに、佐千夫はじぶんを責める。おまえはエゴイストだ。ヤキモチヤキだ。それとも、相手が
小商人だからミエを張っているのか。父のために母を思っているなんて、へりくつじゃないのか。
 (あるいは、母はおれの学資のために再婚しようとしているのかもしれんぞ)
 そんなことなら、進学なんてまっぴらだと、佐千夫はひとり肩をそびやかすこともある。逆に、人のいい岡本を金のため
に母が誘惑しているのではないかと疑うこともあった。おとなのまともな自然のなりゆきを、こどもの佐千夫が幼稚な感情
からさまたげているとはげしくじぶんをののしることもあった。
 そんなときにあらわれた玲子は、いわばひとつの窓であった。玲子といるとき、佐千夫は進学についての悩みも母の恋
も、忘れることができた。遠くへ押しやることができた。「あなたのクラスにも、すてきな女の子がいるでしょう?」
「いや、くだらんやつらばかりだ。学校以外ではだれともつきあっていない。つきあおうとも思はない」(あなたひとりだけだ)
けだ) 「ほんとうだったらうれしいわ。あたしのほうは女の子ばかりだもの。明瞭だわ」そんな微妙な会話がふたりの間に
とりかわされるようになってまもなくの日曜の午後、佐千夫ははじめて、玲子の招きでその家を訪れた。(つづく)


 次回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第2章(P19~P22)【6】P90~P92を紹介します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 故郷は遠くにありて・・・忘れかけてた【遠い背景の記憶】原点回帰[204]【あゝりんどうの花咲けど】 

2023-11-21 | こころの旅

 今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P13~P16)【4】P133~P134の紹介です。
 異性の友だちができたことを肉親に知らせるのは、むつかしい。はずかしいことでもあった。しかし、知ってもらって
おくのと秘密にしておくのとでは、その便利さはまったくちがう。それでも、交際のはじめのうちは、まだよい。みつかって
から白状しても、弁解がなりたつ。他のことにかこつけての外出も、おそい帰りも、まだそう回数は多くない。けれども、
ふたりの交際が深まり、たがいの胸のなかにそのおもかげが大きな影を占めるようになってくると、秘密はさまざまな
支障を呼ぶことになる。
 玲子はまず伏線を張った。「房代さんのボーイフレンドって、すごくギターがうまいの」「明子さんの家に寄ったんだけど
、ボーイフレンドの加藤クンが来ていたから、遠慮して帰ってきちゃった」「節子さん、自分の好きな流行歌手に熱烈な
ファンレターを書いているのを原田クンにみつかつて、ほっぺたをひっぱたかれたんだって。顔を張られて、それで
うれしがってるんだから、人の気持ちって妙ね」 ことあるごとに、親しい友だちのだれもが特殊のボーイフレンドを持っ
ていることを、父や母に吹聴しはじめた。ついにある夜、玲子が待ちかねていたことばを、父がもらした。
 「みんななかなかもてるようだが、玲子もどうして男の友だちのひとりぐらい、わしに紹介してくれんのだね?」そばから
母が父のコップにビールをつぎながら、「だめよ、この子は。わたしに似て、そのほうは臆病なんだから」「あら」と玲子は
ここぞとばかり声を張り上げる。「あたしだって、すてきな男の子の友だちのひとりぐらい、持って
るわ」「負け惜しみは言わなくていい」「負け惜しみじゃないわ。この前の土曜、映画を見たでしょ?ほんとうは、節子さん
とではなくてその人と行ったんだから」父と母は、顔を見合わせた。「おいおい、ほんとうか」 「ほら、ひとりぐらい紹介しろ
と言った口の下から、もう目の色変えるんだから」「そうじゃない。玲子がつきあっている子なら、
わしたちも知っておくといいと思うからな」「知りたい?」「どんな子だ」「今度連れてきていい?香原高校の秀才よ」
 こうして玲子は、ふたりの交際を父母にみとめさせることに成功した。叔母を見舞いに行ったときに知り合ったのだと
知って父は、「こいつめ、そのためにちょいちょい若津町へ行くんだな」「あら逆よ、叔母さんのところへ行くから、知り
あったのよ」要領よく、玲子は父母に佐千夫について語った。「お父さんがいないの。トンネル工事の技師だったんで
すって。事故でなくなったらしいの。仕事いちずに生きた父だと、とてもそのおとうさんをそんけいしているわ」「おかあさ
んが、若津病院のまかない婦をしているんですって」
 母がまかない婦をしていることを玲子に語るとき、佐千夫のほおはあからんでいた。そのあからみをみずから意識した
とみえ、佐千夫はつけ加えたものである。「ぼくは母の職業を恥はしない。母がはたらかねばならない暮らしであることを
、恥はしない。母をはたらかせて、ぼく自身が定時制ではなく全日制の高校に通っていることにやましさをおぼえている
んだ。だからあかくなった」「しょっちゅう、じぶんの行動や意識の流れを分析している人なの。入試だけがすべてだと
いうガリ勉秀才とちがうわ。人生の懐疑派なのね」
 日ごろ玲子は家では、できるだけこどもっぽく茶目にふるまっている。父母には、玲子がそのようなことを言うことすら、
思いがけないようであった。「ものすごい読書家なの。ベストセラーなんかには見向きもせず、図書館のカビくさい古典を
をかたっぱしから読んでいるの」もともと玲子も、よく本を読むほうであった。さらに読書欲が深まったのは、たしかに
佐千夫との交際のせいであった。「じゃ、大学には進まないんだな?」父は佐千夫に興味をもったようである。「ううん。
夜間部のある東京の私立に、はたらきながら行くらしいの。ひよっとしたら、国立にはいるかもしれない。おかあさんの
こともあり、彼は今、それで悩んでいるの」「おかあさん、いくつだって?「それがまだ若いの。四十そこそこらしいわ」



 次回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P16~P18)【5】P134~P135を紹介します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 故郷は遠くにありて・・・忘れかけてた【遠い背景の記憶】原点回帰[203]【あゝりんどうの花咲けど】 

2023-11-17 | こころの旅

 今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P11~P13)【3】P30~P33の紹介です。
 それから一週間置いた土曜日の夕方、玲子はふたたび病床の叔母を見舞った。ひそかに、あの朝の少年に
会えるかもしれぬという期待が若津町行きのバスに乗る玲子の胸にはあった。もちろん、そのような偶然はめったに
訪れはしない。高校生はぜい乗っていたけれども、佐千夫はいない。夕方、海に出た。叔母の病気は、叔母自身が
大げさに考えているほどひどくはない。玲子が時々叔母を見舞うのは、むしろ玲子の好きな海と語りたいためだと
もいえる。砂浜を波が洗う。白く砕けてなめらかに引いてゆく海水の上に、あたらしい波がよせてきて、ふたたび白い
波頭が立つ。小さなカニが、右へ左へ走っている。海は空を映して、さまざまな変化にみちた色を見せる。
 玲子ははだしになって、波に足を洗われながら、なぎさを伝わっていた。小さな河口があった。その河口に、人影
がたたずんでいた。ゆっくりと歩きながら何気なく見やっていると、その人影がすばやく動いた。からだがねじられ、
その人の手もとを離れた網が、空中にひろがった。それはまるい円となって、海面に落ちた。(魚をとっているんだわ)
 玲子は近づいた。網はたぐりよせられはじめた。その人の背後で、玲子はたたずんだ。どんな獲物がかかったか
見たかったのだ。網は海中から、たばねられて上げられた。なにもかからなかったようである。網をまわしてそれを
たしかめ、ぱらりとひろげて、その人は網を洗いはじめた。玲子も、がっかりした。そのままもどろうとしたとき、その人は
ふりかえった。顏が合った。そのときのおどろきを、佐千夫は生涯忘れないだろう。人気のない砂浜の河口で網を
打っていると、どこから来たのか忽然と少女があらわれていたのである。しかも、その顔を彼は忘れていなかった。
 ふたりは、言い合わせたように、たちすくんだ。ふたつの口から、同時におどろきの声がもれた。網を打っているのが
年若い異性だと予想していたら、玲子には近づく勇気はなかっただろう。「あなたはいつかの・・・」問いかけの途中で
、玲子はそうであることをはっきりと知った。急いで礼を述べはじめた。「いや、あれぐらいあたりまえです」佐千夫は、
水音をたてて浜に上がってきた。「あれからだいじょうぶでしたか?」「ええ、おかげさまで。ほんとうに助かりました」
 それからふたりが比較的あっさりと会話をはじめたのは、ふたりとも制服ではなかったという条件にもよるだろう。玲子
はわざわざ手にサンダルをもってハダシになっており、佐千夫はタオルではち巻きをし、肩から濡れていた。けれども、
ふたりの会話はぎこちなかった。女子ばかりの高校に行っている玲子は異性と話をするのに慣れていなかったし、
その玲子にはクラスの女生徒とちがうあるムードがただよっていて、佐千夫も上気させていた。「父が網打ちが趣味だっ
たんです。うまいものでした。これも、父が残した網です。ぼくはつくろうのがにがてだから、めったに使わない」(この人
にはおとうさんがいないんだわ)「あなたもおじょうずですわ」「いや、ほんとうはもっと遠くに飛ぶはずなんです」佐千夫
は波打ちぎわで海水につけているピクをひきあげ、玲子の前にさし出した。いつも獲物ゼロでないことを示したかった
のである。「ほら、はしのほうにクルマエビが二匹はいっている。クルマエビなんて、めったに網にかかるもんじゃないん
です」「あら、ほんとうだわ。すてき」玲子は磯の香を嗅ぎ、佐千夫の鼻には玲子の髪が匂った。佐千夫は少女が声を
上げて感嘆したことに満足した。
 次第に潮がみちてくる。ふたりの立っている砂浜は、すこしずつ適確に、海にひたされていきつつあった。玲子が
頼み、佐千夫は何回か網を打った。ピクを持って、玲子はそのあとについてゆく。何匹かの、ひらべったい小魚がとれた。
魚の名を、佐千夫も知らなかった。やがてふたりは、海へ背を向け、防波堤のほうへ並んで歩いた。空はもう紫がかり
、星が光を発しはじめていた。「お友だちになれてうれしいわ」佐千夫が先に名のり、応えて玲子がじぶんの住所氏名
を告げたあと、玲子はつぶやくようにそう言った。そのことばは、夜になってからの佐千夫の胸に、生き生きとよみがえっ
てきた。


 次回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P13~P16)【4】P133~P134を紹介します。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  故郷は遠くにありて・・・忘れかけてた【遠い背景の記憶】原点回帰[202]【あゝりんどうの花咲けど】 

2023-11-14 | こころの旅
 
あゝりんどうの花咲けど(昭和40年9月号P127~135)
  ※はじめて玲子を見たとき、佐千夫は吸いかけた息をとめた。濃いまつげにかこまれた
玲子のひとみに、窓外の景色が流れていた・・・・・。
 今回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P9~P11)【2】P130~P130の紹介です。

 人に席を譲るのは、簡単である。慣れてもいる。老人や赤ちゃんを背負った母親や病人らしい人が乗ってきた
とき、自然に佐千夫のからだは浮いた。しかし、相手が女子学生である場合、しかもそれが
美しい人である場合、それは勇気のいることであった。
 (親切の押し売りと思われはしないか、それを口実に近づこうとしていると疑われやしないか、あいつうまいこと
やった、と、他の少年が思いはしないか)佐千夫はためらった。たしかめるように少女をうかがった。
 少女は、目をつむっていた。長いまつげが、下のまぶたにかかっている。顔をしかめているようである。制服の
胸が、早く大きく上下していた。(勇気とは、こういうとき、人のおもわくなどを気にせず、信じるところにしたがって
行動することではないか)
 佐千夫は、立った。ぎこちない動きであることは、じぶんでもわかった。少女にぶつかりそうになった。少女は
目をひらき、からだをおこした。少女の横のだれかが、佐千夫が降りるために立ったものと早合点したか、すばやく
わりこんで席をとろうとした。佐千夫は腕をのばしてそれをとどめ、少女に言った。「腰かけませんか」少女は顔を上
げて佐千夫を見、そのときはじめてふたりの目はあった。少年がじぶんの苦しさを救おうとして立ったのであることを
、玲子は知った。玲子はそのときはもうふらふらになっていて、つり皮にぶらさがっているのがようやくだった。
 「ありがとう」玲子はじぶんの声があまりにも弱々しくて低いので、少年にきこえなかったかもしれぬと思い、かさね
ていたのも、いつものとおりであった。言った。「すみません」「さあ」位置が入れかわり、玲子は座席にからだを沈め
た。佐千夫はじぶんの行為に羞恥をおぼえて、顔をほてらせていた。そのまま玲子は上体をかがめて額をおさえる。
佐千夫は、立っている人々の圧迫が少女におよばないための防波堤になった。少女のえり足の白さが、佐千夫の
目を射た。あわてて目をつむった。
 腰かけてから、玲子はいくらか楽になった。用心しながら、呼吸をととのえはじめる。立っていたときには感じな
かつた風が、こころよくほおをなでる。胸のむかつきも、おさまりつつあった。けれども、まだ市内までは遠い。気を
つけねばならない。それに、席をゆずってくれた少年は、前に立っている。できるだけ玲子の前の空間をあけようと
努力している善意が、あきらかだった。一瞬視線が合ったときのひたむきな少年の目も、まだ玲子の胸に余韻を
残している。玲子は顔を上げ得なかった。ふたたび少年と目の合うのが、はずかしくもあった。やがてバスは市内
に入り、終点に着いた。玲子が降りたとき、あたりにはもう少年の姿はなかった。玲子はそろそろと学校へ歩み出し
た。それはある朝の、ささやかなできごとにすぎなかった。ありふれた話であった。けれども、少女のいたいたしい
表情は、佐千夫の胸にやきついていた。(きれいな人だったな)玲子の心にも少年の親切は忘れがたい思い出
として残った。(あの人がいなかったらわたしは醜態を演じていたにちがいない)それはその次の日のための、
ひとつの前ぶれであった。


 次回は、【あゝりんどうの花咲けど】編集版 第1章(P11~P13)【3】P30~P33を紹介します。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする