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旅日記

望洋−29(神風特別攻撃隊)

18.神風特別攻撃隊

連合国軍のレイテ上陸部隊を殲滅するため、日本の連合艦隊は総力を挙げて、10月23日から26日にかけて、米艦隊機動部隊との艦隊決戦に挑んだ。

機動部隊

機動性の高い部隊で、航空母艦を中心に巡洋艦・駆逐艦で編制された部隊

この決戦で日本海軍は、初めて神風特別攻撃隊を組織的に運用した。​

この神風特別攻撃隊の創始者の一人が、「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎中将である。

  

 

18.1.特別攻撃隊の構想

日本海軍は南東方面に於いて航空消耗戦(マリアナ沖海戦などで)に巻き込まれ、補給は間に合わず兵力は極度に減少し、また熟練搭乗員の多数を失ってその戦闘能力も一挙に低下し、航空戦力はガタ落ちになってしまっていた。

そのため戦局は悪化の一途をたどり始めた。

この戦局打開の一方策として航空関係者の間に、体当たり攻撃を主張する者も出てきていた。

昭和18年6月、海軍侍従武官城英一郎大佐は、密かに肉弾攻撃(特攻)の採用と、自分をその指揮管に推薦されたい旨を航空本部の首脳に申し入れている。

また城英一郎大佐は月29日に航空本部総務部長大西瀧治郎にも会って意見を求めたが、大西は「意見は了とするがまだその時ではない」と答えた、という。

城英一郎は7月2日に再度大西に上申した。

その時の大西の反応は不明だが、城のこの構想は後に大西が開始した神風特別攻撃隊につながっているのは、間違いないだろう。

 

18.2.大西中将の体当たり攻撃決意

昭和19年10月5日、軍需省航空兵器総局総務局長であった大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官の後任予定者として、南西方面艦隊司令部付として発令された。

この頃の第一航空艦隊の状況は、保有230機、実働149機であり、それは当初の大本営計画の実働350機の40%に過ぎなかった。

大西中将は、このような状況下で敵が来攻してきたならば、体当たり攻撃を採用するよりほかに対処する方法はないように思うようになっていた。

しかし部下に肉弾攻撃を要求することは重大な決意が必要であったため、さすがの大西中将も、直ちにこれを実施する決意はつかなかったようである。

10月9日、大西中将はフィリピンに赴くため東京を出発し、10日鹿児島県の鹿屋基地に着いた。

ところが同日、米機動部隊が沖縄に来襲(*1)したので、上海を経由して11日高雄に到着した。

たまたま豊田副武連合艦隊長官が比島視察の帰途新竹基地(台湾北西部)にいるのを知り、同日直ちに新竹に飛んで豊田長官を訪問した。

台湾は翌12日から14日まで米機動部隊の攻撃(*2)受け、大西中将は豊田長官と共に、新竹上空におけるわが零戦と米グラマン戦闘機との空中戦闘を見守った。

(*1)十・十空襲、(*2)台湾沖航空戦

この時、大西中将は、日本軍搭乗員の練度低下の実状をまのあたりに見て、体当たり以外に方法はないとの感を一層強くした。

大西中将は16日新竹を出発し、17日マニラの第一航空艦隊司令部に到着した。

(この日、米軍はスルアン島に上陸している)

連合国軍の比島進攻の気配がにわかに濃厚となったにもかかわらず、これから自分が率いようとする第一航空艦隊の兵力が話にならぬほどに僅少であることを、この地で改めて大西中将は実感した。

翌18日に捷一号作戦が発動され、連合国軍の上陸軍を壊滅するため、艦隊のレイテ湾突入日が10月25日と決まった。

連合艦隊司合部では基地航空部隊の協力下に水上艦隊を敵上陸地点に突入させようと企図し、その準備を進めていた。

基地空部隊としては、水上艦隊の突入日までに、米空母を撃沈できないまでも少なくともこれを撃破して、飛行機だけは使用できないようにしておく必要があった。

しかし決戦まであと幾日もなく、また航空兵力も弱小の現状では、もはや体当たり攻撃の実施に踏み切るほかないと大西中将は思った。

10月19日、大西中将はこの戦局打開の一方策として、体当たり攻撃することを決意する。

そして、特攻隊員の人選を行うため、マバラカット基地(マニラ北西)に向かった。

 

18.3.特攻隊の人選

19日の夕刻マバラカット基地の第201海軍航空(以下201空)本部に到着した大西中将は、早速、同空の主だった者を集めた。

航空隊側からは副長玉井浅一市佐、戦305飛行隊長指宿正三大尉、戦311飛行隊長横山岳夫大尉が出席し、また第一航空艦隊首席参謀猪口力平中佐、26航戦首席参謀吉岡忠一少佐が同席した。

大西中将は、一同を前におもむろに口を切って、

「戦局は皆も承知のとおりで、今度の「捷号作戦」にもし失敗すれば、それこそ由由しい大事を招くことになる。従って、第一航空艦隊としては、是非とも第一遊部隊のレイテ突入を成功させねばならぬ。

そのためには敵の機動部隊を叩いて、少なくとも一週間位、空母の甲板を使えないようにする必要があると思う」と述べ、ややあって、「それには零戦に250Kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに、確実な攻法はないと思うが、・・・どんなものだろう?」

と、一同にはかった。

玉井中佐は大西中将に暫くの猶予を請うて、指宿大尉と自室に入り、意見交換を行い、「大西中将の意見に同意することを」確認した。

再び会議が開かれ、玉井中佐は201空としての決意を大西中佐に述べるとともに、編成に関しては、航空隊側に一切を委して貰うように要望した。

大西中将の前を辞した玉井中佐は早速編成に着手した。特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛(甲種海軍飛行予科練習生)10期生を中心に33名を集め、志願者を募った。

隊の指揮官は、海軍兵学校出身者から選ぶこととし、関行男大尉を人選し、意向を尋ねたところ承諾を得た。

こうして最終的に24名の特攻隊が編成された。

各隊は体当たり攻撃をなすもの2機、直鞍(援護機)・戦果偵察をなすもの2機、をもって一組とするのを標準とした。

 

18.4.神風特攻隊

体当たり攻撃隊24名の人選が終わったのは10月20日の午前1時過ぎであった。

攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と呼称されることになり、また同攻隊は四隊に区分され、それぞれに「敷島、大和、朝日、山桜」と名付けられた。

これは、本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名されたものである。

20日午前10時、大西中将は特別攻撃隊全員を集め、激励と感激の訓示を行った。
中将の訓示の骨子は次のとおりであった。

「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。

それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。どうか成功を祈る」

「皆は既に神である。神であるから欲望はないであろう。

が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが、無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。

しかし皆は永い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることも出来ないし、知らせることも出来ない。だが自分はこれを見届けて、必ず上聞に達する様にするから、そこは安心して行ってくれ」

「しっかり頼む」

訓示を終えて、大西中将は隊員の一人一人と熱い握手をかわした。

 

事実上の神風特別攻撃隊の編成を終えて、20日夕刻マニラの司令部に帰着した大西中将は、同夜20時、寺岡前司令長官との交替を終え、ことに正式に第一航空艦隊を指揮することとなった。

この日、大西中将は第一航空艦隊司令長官として発令された。

同中将は翌21日19時「二十日着任長官交代ヲ了ス」と全軍に通電した。

大西長官は就任すると、まず201空司令に対して正式に体当たり攻撃隊の編成を命じるとともに、連合艦隊司令長官豊田副武大将に対し同攻撃隊を編成した旨を報告した。

 

その後10月22日から26日までの間に、更に零戦4隊(菊水、若桜、葉桜、初桜)及び彗星隊が編成された。

各隊は体当たり攻撃をなすもの2機、直鞍(援護機)・戦果偵察をなすもの2機、をもって一組とするのを標準とした。

なお第6基地航空部隊においても、10月25日の決戦が終わったのちに体当たり攻撃の採用実施に踏み切り、27、29の両日に彗星計8隊が編成されるに至った。

そこで、第5基地航空部隊(第一航空艦隊)のものを「第一神風特別攻撃隊」、第6基地航空部隊(第に航空艦隊)のものを「第二神風特別攻撃隊」とそれぞれ呼称することとなった。

 

18.5.特攻攻撃の実行

10月21日特別攻撃が空母攻撃に出撃した。

しかしこの日は、天候不良のため敵を発見できず帰投したが、未帰還機もあった。

その後、連日出撃したが、敵空母を補足できなかった。

初めて体当たり攻撃に成功したのは10月25日のことであった。

この日マバラカット、セブ及びダバオ(ミンダナオ島)の三方面からそれぞれ出撃し、編成以来初めて敵空母の捕捉に成功した。

最初に米空母軍群を捕捉したのはダバオ発進のものであった。

朝日、山桜、菊水各隊は6時30分にダバオ基地を発進、ミンダナオ東方海面に対し索敵攻撃に向かった。

18.5.1.菊水隊初の戦果

朝日、山櫻、菊水各隊は6時30分にダバオ基地を発進、ミンダナオ東方海面に対し索敵攻撃に向かった。

菊水隊(零戦3機編隊(攻撃2機、直掩(援護機)1機))は8時頃、スリガオ東方40海里付近で、北進中の空母5隻、戦艦2隻を発見した。

攻撃隊は直ちに空母を目がけて突入し、うち1機が大型空母の艦尾に命中したのが認められた。

この戦果は直掩機のセブ掃還後、同基地から9時48分次のとおり打電された。

特菊水隊(体当リニ、俺護一)〇六三〇「ダバオ」第二基地「スリガオ」島東方約四〇理(正確ナラズ)ラ北進中ノ空母五(内 特空母三) 戦艦二ラ基幹トスル機動部隊ヲ撃一機正規空母ノ艦尾二命中火災停止スルヲ確認ス

 

なお、朝日隊(零戦3機編隊(攻撃2機、直掩(援護機)1機)及び山櫻隊(零戦4機編隊(攻撃2機、直掩(援護機)2機)は攻撃隊を見失って、10時20分レガスピーに帰投した山櫻隊の直鞍機2機のほか全機未帰還となり、その戦果は明らかでなかった。

米軍の戦闘状況 (抜粋)

米側資料によると菊水が捕捉した敵は、シアルガ島沖およそ40海里を行動していたT・スプレイグ少将指揮の”タフィ1”(護送空母4隻、直衛駆逐艦8隻)であった。

7時40分、同隊は日本軍飛行機6機の攻撃を受けた(注:菊水隊で突入したのは2機であるから、朝日らの隊も同じ目標を捕捉したのかも知れたい)、空母サンチーは丁度、攻撃際の発艦を終わった時であった。

1機の日本軍機が雲の中から同空母めがけて突入してきた。

それはあまりに突然であったので、対空砲火を向けることもできなかった。

同機は機銃を発射しながら突っ込んできて、飛行甲板左舷前部に命中し、格納甲板に突き抜けた。

その爆発で乗員43名が殺傷され、15フィート✕20フィートの破口を生じ、そして火災を起こした。
火災は10分後に鎮火した。(以下略)

 

18.5.2.敷島隊、空母を撃沈す

敷島隊(零戦9機編成(攻撃5機、直鞍4機)は、關行男大尉指揮のもとに7時25分マバラカットを発進、比島東海岸沿いにタクロバンに向かって索敵攻撃の途中、10時10分東方スコールの中に、戦艦四~五隻、巡洋艦、豚逐鑑等30隻以上、F6F(グラマン)25機在空の部隊が北進しているのを認めた。

 次いで10時40分、タクロバンの八五度約90海里に、空母四隻、巡洋鑑、駆逐艦など6隻の一群を発見、10時45分、攻撃隊は空母めがけて突入した。

直鞍機により確認された戦果はまことに大きかった。

零戦2機が一隻の中型空母に命中、同空母は沈没した。

一機の命中を受けた別の中型空母は火災を起こし停止した。

もう1機は巡洋艦に突入、これを撃沈させた。

この間、直鞍隊(指揮官 西澤廣義飛曹長)はグラマン戦闘機一機を撃墜したが、味方も一機 (管川操飛長)が対空砲火を受け自爆した。

敷島隊の戦果はセブ基地から12時5分、

『敷島隊〇七一五、「マバラカット」発「スルアン」島ノ三〇度三〇浬中型空母四隻ヲ基幹トスル四隊ノ敵ヲ一〇四五攻撃 戦果空母一隻二機命中撃沈 空母一隻一機命中火災停止 軽巡一隻一機命中瀬沈』

と打電された。

米軍の戦闘状状況(抜粋)

米側資料によると敷島隊が捕捉した敵は、C・スプレイグ少将の”タフィ3”であった。

栗田部隊からの追撃をようやく逃れた同隊は、その時飛行機を収容しようとしていた。

そして10時50分、日本軍機に不意に襲われた。

これらの神風機は全くレーダースクリーンに現れなかった。すべて低空を近接して来て、レーダーの通達範囲内で急上昇し、高度5000フィート~6000フィートから急降下に移った。

その突入は急激かつ突然であったため、上空警戒機もこれを阻止できなかった。

旗艦の空母キトクン・ベイが最初に攻撃された。

1機の零戦がその艦首を左舷から右舷に横切り、急上昇したと見るや機首をひるがえし掃射しながら艦橋を目がけて急降下した。

同機は艦橋構造物の上を飛び抜け、命中しなかったが、搭載の爆弾が炸裂して相当の損害を与えた。(以下略)

 

18.5.大西中将の自決

大西中将は昭和20年1月、台湾に転進し、4月に東京に帰った。

5月19日、軍令部次長に着任。海軍大学校甲種卒業者ではない大西が着任する異例の人事であった。

 

日本は8月14日ポツダム宣言を受諾し、終戦した。

翌15日正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された。

8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、「介錯無し」で割腹自決した。

午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。

大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。・・・」などと話した。

介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去した。享年55。

遺書は二通。一通は長野に疎開中であった淑恵夫人に宛てたものであり、もう一通は、大西に見送られて十死零生(生きる望みはゼロ)の作戦に散った全特攻隊員に宛てたものであった。

    遺書
特攻隊の英霊に白す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は國の寶なり
平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し
日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ
   海軍中将 大西瀧治郎

<辞世の句>

これでよし 百万年の仮寝かな

 

<続く>

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