17.フィリッピン沖海戦(レイテ沖海戦)
昭和19年(1944年)10月20日から25日にかけてフィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍と連合軍との間で史上最大とも言える海戦が行われ、日本海軍は大敗北を喫するのである。
17.1.連合軍のレイテ島上陸
10月17日6時50分、レイテ湾口スルアン島の海軍見張所は、突如、戦艦1隻、駆逐艦6隻の近接を認めた。
次いで7時20分に空母1隻、7時25分に更に戦艦1隻と空母1隻を認めた。
同見張所は直ちにこの状況を平文で「戦艦二、空母二及び駆逐艦軍近接」と速報した。
7時40分「敵は上陸中」と報じ、さらに8時には「敵は上陸を開始せり、天皇陛下万歳」と発信して連絡を断った。
第5基地航空部隊では直ちにレガスピー(ルソン島南部)から偵察機を発進し、スルアン島方面の散情を偵察させた。
同機は12時30分スルアン島の西方に戦鑑1隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻が遊戈中なるを発見して撮告した。
一方第16師団は飛行第45戦隊機でタクロバンから離陸、偵察して12時半「レイテ湾内散艦船なし、湾外密雲にして視察しえず」と報告した。
この間、第四航空軍(マニラ)は8時に、第二飛行師団に「捜索、攻撃準備」を命令し、南西方面艦隊(マニラ)は「クラーク地区(マニラ北部の空港所在地)を敵機約100機爆撃中」などの報があった。
スルアン島に上陸した米軍は、レイテ湾への侵入を開始する。
10月18日、捷一号作戦準備が発動される。
その間、米軍は着々と侵攻し、20日遂にレイテ島東海岸に海兵隊の第一陣が上陸するに至った。
10月20日から25日にかけてフィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍とアメリカ海軍及びオーストラリア海軍の間で史上最大とも言える海戦が行われるのである。
17.1.1.捷一号作戦
連合艦隊は捷一号作戦計画に基づき、水上主力艦隊をレイテ湾に突入させ、一挙に敵の輸送船団を撃滅することにより連合国軍の上陸企図の破砕を図った。
レイテ湾突入には第一遊撃部隊(栗田艦隊)と第二遊撃部隊(志摩艦隊)が任じた。
突入日時は10月25日黎明と決定された。
比島に集中の第5、第6基地航空部隊をもって比島東方海面の米軍機動隊を攻報する一方、機動部隊本隊をもってこれの北方誘致を図り、その間に第一遊撃部隊等をレイテ湾に突入させるというのが連合艦隊の決戦要領であった。
つまり、レイテ湾入口を守備する米軍機動部隊をレイテ湾から遠ざけ、その隙を狙って第一遊撃部隊をレイテ湾に突入させる作戦である。
しかし、米軍は用意周到に、日本軍の戦力を削ぐ作戦行動を起こしており、日本の戦力はガタ落ちしていた。
そして、日本艦隊のレイテ湾突入を阻止しようと、手ぐすね引いて待ち受けているのは、ほぼ4倍以上の戦力を持った米機動部隊であった。
17.1.2.フィリピン沖海戦
<日本艦隊、及び米軍艦隊がたどった航路>
連合艦隊第一遊撃隊本体(栗田艦隊)と支隊(西村艦隊)はボルネオ島のブルネイを22日に出港し栗田艦隊はミンドロ島の南を通りシブヤン海を抜けサマール島沖を南下してレイテ湾に向かった。
西村艦隊はボホール海を通り、スリガオ海峡を抜け、レイテ湾に向かう。
また、第二遊撃部隊(志摩艦隊)は21日台湾海峡から南下し西村艦隊と同じルートでレイテ湾に向かった。
機動部隊本隊(小澤艦隊)は20日伊予灘を通り四国沖を南下しフィリピン島に向かった。
基地航空部隊は台湾沖航空戦における兵力損耗のため、比島に集中できた兵力は実働300機にも満たない状態であった。
このため、機動部隊本隊(小澤艦隊)の囮作戦は全滅覚悟の作戦となった。
10月24日、基地航空部隊は北島東方海面を行動中の米機動部隊に攻撃を集中したが米機動部隊の全貌を捕捉できず、当時三群に分かれて行動していた米機動部隊のうち北端の一群に攻撃を加え得たに過ぎなかった。
このため同日シブヤン海を東進中の日本の第一遊撃隊本隊は他の二群(米軍機動部隊)から集中攻撃を受ける結果となった(シブヤン海海戦)。
この海戦で戦艦武蔵が沈没している。
25日、基地航空部隊は総攻撃を企図したが米機動部隊を捕捉できなかった。
この間、サマール島沖とエンガノ岬沖で二つの海戦が同時に行なわれた。
第一遊撃隊本隊(栗田艦隊)はサマール沖で幸運にも米護衛空母群に遭遇して火を交え、これに壊滅的打撃を与えた。
一方、エンガノ岬沖の機動部隊本隊は空母全滅の悲運に遭ったが、米機動部隊の北方誘致に成功し、第一遊撃隊本隊のレイテ湾突入の援助ができたかに見えた。
しかしこの成功も無為に帰した。
第一遊撃隊本隊(栗田艦隊)がレイテ湾に突入しなかったからである。
それは、サマール島沖で交戦していた、栗田艦隊に北方に敵機動部隊がいるという報告が入ったからである。
栗田艦長らは、この報告により勝算が薄い米軍上陸部隊撃滅に向かうより、連合国軍の機動部隊の殲滅を目指した方が戦局に貢献できると考え、北方へ転針したのである。
この、第一遊撃部隊のレイテ湾突入寸前の反転は、後に「栗田リターン」と呼ばれる。
たが、この北方の敵機動部隊という情報は誤りで、この「栗田リターン」は残っていた一抹の勝機を逃した。
他方、西村艦隊はスリガオ海峡で米軍と交戦となり、壊滅的打撃を受けた。
また、西村艦隊の後に続き、突入する予定だった志摩艦隊は2時間遅れでスリガオ海峡入口に到着した。
暫く交戦し、志摩長官は玉砕を覚悟して突撃を続けようとしたが、参謀らの諌止を容れて、敵情不明を理由に撤退を決意すると突撃していた駆逐隊を収容、海峡からの脱出した。
結局この戦いは日本軍の大敗北となった。
参加した第一遊撃隊本隊(栗田艦隊)、第二遊撃部隊(志摩艦隊)は戦力が半減、機動部隊本隊(西澤艦隊)と単独で先行突入した第一遊撃隊支隊(西村艦隊)は壊滅し日本海軍は回復不能の痛手を負い、この後には組織的行動を取ることが困難となった。
かくて、勝機を逃した連合艦隊は敗北した。
しかし、たとえ、栗田艦隊が米軍のレイテ島攻略部隊を壊滅させレイテ島上陸を防いだとしても、それは時間稼ぎにしかならず、遅かれ早かれ、連合国軍はどこかの島に上陸してきたと思われる。
前述したように、時の総理大臣小磯國昭は、この決戦の快勝により終戦に導くことを期していた。
つまり、「一撃講和論」である。
これは、圧倒的不利な状況の中で敵軍に一撃を加えて、少しでも有利な状況での講和を模索するというものであった。
当時これは、天皇、政府、軍部上層部、財界とも共通した考えだった、という。
しかし、圧倒的に有利な連合国軍が、一時の損害で講話してくれるはずがないと思うのである。
あえて極端に言うと、日本の常識(あるいは独りよがり)とは、世界の常識ではなかったのであろう。
17.2.フィリピン沖海戦の結末
この6日間の海上戦役は、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦といった四つの海戦で構成されており、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行われが、日本軍の大敗北となった。
大本営は、レイテ突入作戦に関連する一連の戦闘を「フィリピン沖海戦」と呼称した。
そしてこの海戦で海軍は象徴の一つであった「武蔵」を含む戦艦3隻、空母1隻、 改装空母3隻、重巡6隻他多数の艦艇を撃沈されるという大損害を受け、 連合艦隊も海上戦力として回復不能の痛手を蒙るに至ったのである。
戦艦大和もこの海戦に参加している。
大和は米軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。
11月16日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)らは内地に帰還し、11月23日、呉に到着した。
内地に戻った艦艇は、修理はできるが燃料が不足していた。
一方、南方に残った艦艇は、燃料の心配はいらないが、本格的な修理改装のできない状況であった。
日本海軍は不満足な状態で本土と南方とに分断され、組織的攻撃能力を失ったのである。
大本営は、こうした惨憺たる事実を国民には全く伝えることはなかった。
神風特別攻撃隊
この海戦で、神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用された。
この攻撃隊については次回に触れることとする。
17.3.連合国軍による海上封鎖の強化
侵攻した連合国軍のマッカーサーは、25日にレイテ島に司令部を設置した。
連合国軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、潜水艦による海上交通路破壊に加えて、航空機による通商破壊をも本格化して日本の南方航路封鎖を強めた。
昭和20年(1945年)3月以降は南方航路の維持も最早不可能となったのである。
<レイテ島に上陸するマッカーサー司令官>
17.4.フィリピンへ向かう海上挺進戦隊
このような戦況下、フィリピンへ向かう海上挺進戦隊の各隊は昭和19年9月15日〜11月4日の間に順次宇品を出航して、台湾や上海経由で任務地に向かった。
(但し第5、20、及び8戦隊の一部は、米軍機の攻撃を受けて、先への航行ができなくなり、台湾止まりとなっている)
なお、現地に赴いた海上挺進戦隊の任務先は、次のとおりである。
1~4戦隊 沖縄地域(慶良島、宮古島)
21~25戦隊 台湾
26~30戦隊 沖縄地域(本島、宮古島)
台湾とルソン島の間に位置するバシー海峡は、 船団が米潜水艦の攻撃を受けることなく無傷で渡ることは困難となっており、このためバシーは「魔の海峡」と呼ばれるようになっていた。
海上挺進戦隊を運ぶ輸送船船団は、海軍の駆逐艦、海防艦などで護衛され航行したが、この船団の輸送船は米軍の潜水艦によって殆が攻撃を受け、中には撃沈されるケースもあった。
フィリピンに向かった多くの船団が攻撃を受け、戦隊員約2250名中約250名が米軍の攻撃を受け海上死している。
また、㋹約600隻が沈没あるいは破壊された。
フィリピンに到着した後も㋹は連合国軍の攻撃を受けて、多数が損傷してしまった。
海上挺進戦隊としての出撃は2例しかない。
①昭和20年(1945年)1月10日、第12戦隊が40隻で出撃し45名が亡くなった。
戦果は、日本側は火柱から推測して20ないし30隻を撃沈したと発表した。
一方米軍側は公式記録として、8ないし10隻の被害といっている。
②昭和20年(1945年)1月31日と2月10日に第15戦隊が出陣し、25名が亡くなった。
戦果は米軍側の発表では、駆潜挺1隻が撃沈されている他は不明である。
フィリピンに赴いた隊員たちの人数、戦死者等は次のとおりであるが、その多くは地上戦での戦死であった。
戦隊 総員 1609名 戦死者 1200名 戦死率 74.6%
基地隊 総員 14750名 戦死者 13151名 戦死率 89.2%
つまり、フィリピン島に渡った戦隊、基地大隊は米軍の圧倒的な兵力に壊滅・殲滅させられたのである。
しかしこれは、陸軍の挺進隊に関する戦死者だけである。
日本軍全体のフィリピンでの戦死者は50万人を超える。
一方、この大戦でフィリピン全土が戦場となり、約100万人以上にもなるフィリピン人の死者を出したといわれている。
<続く>