28.第四戦隊の状況(続き)
28.2.高山第一中隊長の回想
マラリアの脅威
基地隊にマラリア患者が多発し亡くなられた方も多かったが、(*我が)戦隊は犠牲を免れた。
これは、旧軍兵用地誌のお陰である。
宮古島行きが決定してから、兵用地誌(将校しか閲覧を許されない)を調べ たところ、二十年前に宮古島でマラリアが大流行し、平良の北部地区に埋葬した旨の記事があったので、調べたところ、マラリアは十年間地中で生存する、また媒介するハマダラ蚊は飛翔距離八〇〇メートル(実際現在の学説では違う)との資料を得たので、門司の揚塔作業時に甘味品を減らして、蚊取線香と蚊帳を、また天保山桟橋で も貨物廠にいた(*豊橋第一予備士官学校の区隊長時代の)教え子に頼んで、前々の船舶が積み残した簿外品の蚊取線香や蚊帳をもらって携行した記憶が生々しい。
現地到着後の 最終陣地(洞窟)では、常時蚊取線香と蚊帳の使用を規定したので、 マラリア患者発生までは、その煩わしさをこぼされた向きも多かったようである。
また第一中隊の陣地が水源から一番遠かったのもマ ラリア蚊から遠ざかるためであった。(水汲み当番の方には大変負担をかけたと思っている)
(*)の箇所は筆者が挿入した文
食事の工夫
食糧難の離島で、育ち盛りの戦隊員は、さぞお腹が空いたこととおもっている。
戦隊は幸いなことに特攻食糧があり、バターも含まれていたので、毎土曜日の夕食にはバター気のある滑かなご飯を食べることにしていた。
これについて逸話がある。
たまたま、他部隊の兵隊と戦隊員の特幹生の会話の中で食事の話しがあり、他部隊は飯ごうの半分しかないというのに、戦隊では飯ごうに一杯あると威張っているのを耳にしたという噂がながれた。
これはハッタリであろうが一面の真理を含んでいる。
平素減食していると胃袋が小さくなり、消化吸収も良くなるものだが、これを応用して毎食少しずつ定量を減らし、週末の夕食に重点喫食するという方法をとったものである。
沖縄本島上陸の前兆
平良市街の空襲私が上陸して間もなく、港湾施設を含んで市街地に大空襲がありました。
廃墟と化しました。
慶良間諸島に対する猛砲爆撃が、座間味島を出発して一月後に始まりました情報が流れました。
島民と戦隊の無事を祈りましたが、方策はありませんでした。
無念ながら、ただ祈るだけでした。
イギリス艦隊が、 艦砲射撃を飛行場の高射砲陣地に加えました。
そうして、沖縄本島への上陸が伝えられました。
28.3.菊田隊員の思い出
蛸壺の思考
宮古島の第三中隊荷川取陣地より南へ約三〇〇メートルほど行くと、右は一中隊の方へ、左は平良町に通じる道に交わる。
そこを平良町方向に曲り、約五〇メートルほどで、ゆるい下り坂となる。
そのあたりから、よく見ると獣道のような細い道があり、一〇メートル入って行くとアダンの群生したちょっとした丘がある。
そこに五箇所蛸壺があった。
いずれも港湾設営隊が工築したもので他の所の蛸壺とはちょっと違い蓋がドラム缶でできていた。
これを自分に教えてくれたのは、他の部隊の人であったが同県人で現在も文通を続けている下館市出身の新井少尉であった。
当時の事を書こうと思うがどうしても想い出すの がこの蛸壺の想い出である。
正確な日時は忘れてしまったが、 我々が宮古島に上陸早々の頃、平良に海防艦に護衛された輸送船が入港する間もなく敵のグラマンが襲いかかり沈没してしまった。
憤慨とたまらない気持でその状況を見つめていたのもその蛸壺からであった。
以来その蛸壺は自分にとっては最も安息できる場所であった。
やがて終戦が知らされ、戦友たちと戦争の事やら今後の事 をあれこれと語り合ったのもその場所であった。
夕焼雲が真赤に周囲を染めてアダンの木を照らし、幾枚かの枯葉が夕風に揺れ動いた光景を蛸壺でタバコをふかしながら眺めた自分の姿がシルエットの様に今でも脳 裡をかすめ去るのである。
終戦後四十数年の歳月が流れ、青春時代に情熱を燃やした従軍記億もだんだん薄らいでゆくが、戦友が尊い命を国のために捧げた時の事だけは、鮮明に我々の心の奥 底に残っている。
改めて友の冥福を衷心よりお祈りする次第である。
我々は、残り少ない人生を如何に生きるべきか思考するのは各人各様であるが、肌で覚えた戦争体験から、絶対に戦争は避けなければと絶叫する気持は共通である。
現代の世相は複雑で多岐多様、戦争を知らない新人類といわれる世代の人々も多くなり、我々が解合うのは困難で遠くから見守る外ないのであるが、平和の尊さだけ 何としても教えて行くべきだと痛感している。
そして我々の戦友会でも、亡き友の霊をなぐさめる碑を建立して子孫に伝えたいと念願しているのも一同のそんな気持の現れである。
命がけで戦場に臨 み、苦しみを共にし、泣いたり笑ったり貴重な体験を重ねた戦友は生涯の友でありお互に兄弟以上に思っている。
世の中には利便性や利害関係で付き合う場合もあろうが 戦友だけは別である。
大変偉そうな事を書いてきて申し訳なく思っているが、お互に健康に留意して少しでも意義ある人生を全うしようではないか。
28.4.内田隊員の思い
挺進戦隊員の死生観
われわれは江田島幸の浦の基地で連日連夜、呉の軍港に出入する艦艇を仮想敵船と見立てて、それを目標に行った肉迫攻撃の猛演習の時も、その後、宮古島の陣地で 行動中も、挺進出撃による死の事を常に考えていたかというと、決してそのような事はなく、毎日を実に溌剌と過しており、部外者が我々を見ても何もそのような陰は 一切感じなかっただろうと思います。
しかし、死を全然考えなかったかというとそれは偽りで、休息の時間等、ふとした時に深刻に思い悩んだものです。
だがその一時を過ぎると、また普段の状態に戻って、洞窟やタコ陣地での不自由な環境の中で軍務に励み、夜になると自活のため芋畑を耕すという生活ではあったが、それなりに全員が楽しく青春を過し、出撃の時機到来に備えていたのです。
これは、我々戦隊員が現在でも誇りとしています。
二十年三月一日、久方振りに我が軍の輸送船が来航するというので、島では前日より移動可能な火砲銃機を集め、砲銃口を湾の泊地の方向に向け、敵機の来襲から輸 送船を守る準備を整えて待機しました。
しかしその甲斐もなく、当日、海防艦に護衛された三千屯級の戦時規格造船の貨物船二隻が湾内に姿を見せ、泊地に投錨するやいなや、まるで打合せでもしたが如く敵機の来襲があり、我が砲火をものともせず、我々が島の高台から見守る目前で、その内の一隻が瞬く間に轟沈させられたのであります。
その光景を目のあたりにして、私は自然と涙が出て、痛恨極まりない気持でいっぱいでした。
それ以後は死を深刻に考えるよりも、我なりに立派に出撃してこの仇を撃たねばと、その成功方法をあれこれと真剣に思案するようになりました。
それから間もなく慶良間、沖縄に敵上陸を知り、本土決戦の叫びを耳にするようになり、重大な危機がせまりつつあることは十分察しがつき、また敵機動部隊接近の情報も再三あり、出撃の日が近い事に感奮しておったのであります。
戦闘に直面すれば異常な心理が働くもので、自分のような実戦体験の全くない者でも、敵の空襲で自分に向って機銃掃射を受けた時、本能的に身をかばいながらも、やられるのではないかという怖さなどなく、それが敵愾心というのか、くそっ! 自分にも応射できる武器があれば撃ち落してやるのにと悔しい気持をいだいた事が二・三度あります。
それは興奮で恐怖を意識していないだけで、それが証拠に、そんな事があった後とか、身近な戦友がやられた後など数日間は、空襲という声を聞いただけで敵機の姿が見えない内から逃げ場を考えだしたりしたものです。
しかし十日もするとまた大胆になり、我々戦隊員は歩哨線の出入が自由に認められたのを良い事にして放馬 (隊員間の隠語で、個人が勝手に陣地を離れて自由行動を すること)して、食料を求め歩いたりしたものです。
さて、出撃という極度に緊張した状況下では、他の事は全く念頭 になく、敵愾心に燃え必死になって敵船に近づく事だけを考え、立派に挺進できただろうと今でも信じております。
復員後、何回となく「あの当時の心理状態はどういうのだろう」と自問自答もし、また人からも聴かれたものですが、それは悟りでもなければ自棄の諦めでもなかったと思います。
それは若さと子供の頃から満洲事変、支那事変、大平洋戦争と戦時の真只中で育ち、「国に殉ずることを男子の本懐とする」教育を受けたことが然らしめたものであると思っています。
ある日中隊全員が島の海岸に集められて、中隊長より戦争終結を告げられ、今後の身の処し方につき訓話を受けたのですが、 その時空虚で呆然とした何とも言えない気持であった事を今でも明瞭に 覚えています。
終戦後間もなく、私はマラリヤに罹り、同病の戦友数名とともに野戦病院に入院を命ぜられましたが、堀立小屋の病院の入口に近い我々の病床の枕元で、毎夜点呼が あり、衛生下士官が週番軍医に報告する「入院患者何名、内一報(原隊に危篤を知らせる事)患者何名、二報(死亡)患者何名」という声を高熱で意識朦朧としながら実に忙しく聞き、大変悲惨な院内の状況を目にし、戦争が終り、しかも敵の上陸がなかった我が国領土のこの島でさえこのような状態で、全戦線ではどれほど苛酷な状態だろうと想像して戦争を強く恨む気持があった事を忘れることができません。
最後に今日ある自分に心から感謝し、亡き戦友の御霊に深く追悼の意を捧げを筆を置きます。
28.5.その後の第四戦隊特攻艇秘匿壕
宮古島市教育委員会が平成29年(2017年)に特攻艇秘匿壕の調査を行った、報告書がある。
その一部の図を抜粋する。
<続く>