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旅日記

望洋−46(沖縄戦)

26. 沖縄戦

26.1.宮古島空襲

宮古島に対する空襲は昭和19年10月10日、11日以来B24による視察行動を除き殆んど途絶えていたが、昭和20年1月に入るや俄然活発となってきた。

小型機の来襲の外にマリアナ基地から超空の要塞B29が飛来、高々度から綿密な偵察飛行を繰り返し、宮古島に対する敵の関心が窺われた。

1月以降の主なる空襲記録は次の通り。

11月3日艦載機若干
1月5日艦載機二機
1月13日大型機一機、飛行場及び船舶を攻撃
1月22日 午前7時16分から午後4時迄の間延べ20機が来突、飛行場及び船舶を銃爆撃 、日本軍は地上砲火でその2機を撃墜した。

このような頻繁な敵艦載機の来襲は敵の有力なる機動部隊が宮古島近海(台湾東方海上)に腰を落ちつけて南西諸島を狙っていることを意味し、状勢は極度に緊迫してきた。

第32軍では1月22日午後5時30分に次のように発表した。

22日7時より17時29分頃迄敵艦載機延べ745機、数次に互り南西諸島全域に来襲、銃爆す、我対空部隊の精鋭はこれを迎撃し、左の戦果(沖縄本島のみ)を得たり。

撃墜45機、撃破38機、我が方の損害は極めて軽徴なり。

尚、横動部隊に輸送船団なし、

不安と緊迫が続くうちに1月は過ぎ2月に入った。

この頃は夜間の海上交通もB24 などの大型機に妨害されて航行不能となり、宮古島は空海からの連絡を絶たれ、全くの孤立状態に陥った。

目に見えない巨大な力が犇犇と迫ってくるような緊迫感が肌で感じられ、比島方面の戦況悪化とも相俟って絶望的空気が漲りつつあった。

果然内南洋ウルシー泊地に柴結中の敵機動部隊は10日頃行動を始め、その動向は予断を許さないものがあった。

これにつき第32軍は次のように発表、麾下全部隊に対し、警戒態勢を厳ならしめるよう命ずると共に官民の覚悟を促した。

(現地軍発表)昭和20年2月15日12時

太平洋前進基地を発した敵機動部隊は数日前より行動を開始し、蠢動しあるものの如く、諸情勢を総合するに16日以降我が南西諸島は厳戒を要するものあり

このあとの空襲状況については明確な資料はないが、8月15日の終戦時まで多い日は延べ300機が来攻、とくに沖縄攻略作戦が開始された3月3日からは英太平洋艦隊の艦載機をも加え毎日平均数十機を算え飛行場、港湾施設、民家などに英大なる被害を与えた。

昭和19年10月10日から終戦時までに来襲した敵機は
①戦闘を目的としたもの4,450機
②哨戒(大型機)130機 
③飛行艇(海上に墜落した味方機の救助及び哨戒目的)670機
計5,250機に及んだ。

大型陸上機のうち支那大陸から、また20年7月以降は沖縄から来襲した小型機も若干あったが、そのほとんどは米、英国機動部隊から発進した艦載機であった。

これらの米機が使用した爆弾は250キロ程度のものが多く、市街地にも大分投下され、強力な破壊力を発揮したが、ロケット弾は発射と同時に物すごい音を立てて心理的な面でも恐怖を与えたものである。

集団戦闘準備下令

先島集団では敵の来攻必至とみて12日麾下全部隊に対し戦闘準備を命ずると共に県立女学校及び平良第一国民学校に設けられていた司令部を16日急遽野原越に移し、戦闘司令所を開設した。

集団の戦闘体制は野原岳を核心に 宮古地区を北、中、南、東、海軍地区、伊良部支隊に分け、各地区隊に防衛を担わせた。

そして敵侵攻の状況に応じて兵力の機動集中を行ない、先ず水際決戦で上陸軍を破摧、これに失敗した場合は主抵抗陣地に拠って持久出血戦をつづけ、最後まで敵の飛行場使用を妨害、戦局全般に寄与することを主限としていた。

しかし、持久戦法の背景となる陣地機築が 、コンクリート、工具などの不足で予期の如く進まず、2月末頃の陣地構築状況は所期の70%に達していなかった。

米軍の上陸作戦が行われた場合、どのくらい持ちこたえられるかというと、条件に拠って異なるが

①第一波の水際戦闘に成功すれば3ヵ月

②第一波の水際戦闘に破れた場合は1ヶ月

が持久の目標で、その見込みは十分あったと、関係者は 述べている。

しかし、これは仮定の域を脱せず、状況によってはかなり変わったものになったと思われる。


26.2.沖縄戦の始り

26.2.1.宮古島への空襲の激化

3月中旬南洋ウルシー環礁(パラオ諸島)及びレイテ方面を抜描した史上空前の米遠征団は千数百隻の艦船に分乗して沖縄方面に向かった。

3月23日早朝米艦載機の大群は慶良間進攻作戦に呼応して宮古島に来襲し本格的な空襲の火蓋が切られた。

記述したように、3月23日、アメリカ空母群から飛び立ったグラマン F6F百機を越える艦上戦闘機が慶良間の各島の海岸の施設や民家に対して激しい銃撃を行ない、慶良間諸島での戦闘が始まった。

3月26日午前8前4分、阿嘉島にその第一陣が上陸、次いで慶留間に、そして午前9時、座間味部落と古座間味の両海岸に、アメリカ第77師団第305連隊第一大隊約350名が、ほぼ三隊に分れ戦車群と共に上陸をした。

米軍は沖縄攻略に先立って先島群島からの特攻機の攻撃を事前に制圧するため、同方面の航空基地の微底的破壊に乗り出したのである。

3月30日には延べ50機が来襲、飛行場及び港湾施設、平良町西里の無電受信所、女学校などに重爆撃を加え、かなりの損害を与えた。

集団指令部は2月中旬に野原越に移動、各部隊も陣地に移ったあとだったので、兵員、資材の損失は殆んどなかったが、大編隊による空襲は官民に大きな衝撃を与え、住民は我れ先にと郊外に避難、市街は無人同様の死の街と化し、日中は防空爆生活を余後なくされた。

 

26.2.2.航空特攻

4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。

米軍は堅固な洞窟陣地に拠る日本軍(第62、24師団と独混44旅団、軍直属の砲兵団等)に遮られて4月末になっても日本軍の本営首里城の外郭嘉数城間、伊祖、前田、棚原の線が抜けず、戦線は膠着状態に陥った。

<沖縄防衛守備軍主要部隊の編成 (大田昌秀編著の「これが沖縄戦だ」より)>

この方面を担当する第62師団は歩兵四個大隊を基幹として編成された独立混成旅団二個からなる警備師団だったが、前任地の北支で数回にわたって実戦に参加、大隊長クラスに有能な将校が多く、又師団長藤岡武雄中将は豪胆沈着をもってきこえた将軍、優勢な敵を向こうに回してして一歩も退かず米軍の進出を阻止すること月余に及んだ。

この間日本軍の特攻々撃は3月27日の広森中尉ら9機による第一陣を皮切りに8月13日迄行われた。

又200機内外の大編隊をもって、薄暮又は黎明衝いて行なわれ、陸海合わせて実に7,852機が出撃、その半数近くを失なった。

特攻機

これらの特攻機は九州及び台湾から発進した。

陸軍機は宮古島、海軍機は主として石垣島飛行場を利用した。

台湾を発進した特攻は夕刻に宮古島の中飛行場に着陸、整備及び燃料の補給を受け、明け方敵艦船を求めて沖縄近海をめざして飛び立った。

 

26.2.3.武剋隊

沖縄戦で特攻の第一陣の役目を果たしたのは広森達郎中尉ら9名の「武剋隊」(誠32飛行隊)であった。

3月25日午後遅く、米軍の激しい砲爆撃の中を北方の空から9機の特攻隊機(​​武剋隊)が中飛行場(沖縄)に着陸した。

武剋隊は関東軍で編成され、台湾に向かう途中に燃料補給のため中飛行場に飛来したのであった。

3月26日、中飛行場からの電話で特攻隊が到着したという連絡を受けた第32軍兼第6航空軍兼第8飛行師団参謀の神直道中佐は、自動車に飛び乗り、艦砲射撃の炸裂する中を間隙を縫ってかけつける。

神直道中佐は第8飛行師団長の訓令により、本島付近の特攻隊の指揮を命ぜられていた。

神中佐は、武剋隊をこのまま台湾に行かせた方がよいのか、あるいはここから出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方がより効果は大きいのではないか、否、今夜、明日中にも飛行場に艦砲射撃を受け、離陸することすら困難になるのではないか等々、迷いに迷った。

その結果、神直道中佐は、3月27日払暁に特攻攻撃に出撃するように、下令するのである。

武剋隊(誠32飛行隊)九機は独立飛行第46中隊の一機と共に、3月27日払暁、沖縄中飛行場を離陸、独立飛行第41中隊の二機の誘導のもとに、5時50分嘉手納西方海面の米艦船群に対し、地上軍および島民多数観望の眼前で全機体当たり攻撃を敢行した。

戦果は大型艦沈五、同撃破面と報じられた。誘導機二機のうち一機は宮古島に帰還した。

 

この特攻攻撃を指揮した神直道中佐は、当時の状況を戦後次のように回想し手記している。

私は夕刻艦砲射撃の間隙を縫って飛行場にかけつけた。
島尻地区の住民達は延々と國頭地区に向かって避難の道中である。
敵機が来ようが長蛇の列は止まらなかった。
思いのほか時間がかかる。
ふとフランス敗戦時の住民の避難行が軍の行動を妨害した事を想起する。
広森中尉は凛々しい若い飛行将校である。
眼は澄んで態度は誠に落着いていた。
乗って来た単発機は既に整備隊の手によって秘匿整備中である。
私は広森中尉と会談し、操縦時間や訓練度を知った。
爆装したことがないという。
艦船攻撃について教育を受けたことがないという。
その程度の特攻隊であった。
私は特攻戦法そのものに就いて肯定していた。
しかしいかなる命令を与うべきかについては屏東(台湾高雄)以来考えていながら、まだ判然とした結論が出ていなかった。
特攻隊編成についても上司の指令は「特攻」でなく『「と」第何号飛行隊』である。
任務はあくまで艦船撃沈である。
死は手段である。
命令には必ずしも手段を明示すべきではない。
特攻の内容は体当たりであっても体当たりを命令してはならない。
その点だけは屏東以来確信していた。
通信紙を出して命令を起案した。
案外スラスラと筆が運んだ。

八飛神作命第一号
 命令
武克飛行隊ハ明二十七日薄明ヲ期シ嘉手納湾ニ遊弋スル敵艦艇群ヲ必沈スヘシ

命令下達後、離陸時刻、重装備離陸要領、第一旋回の要領、三機編隊の高度差による対空砲火の分散方法、突撃開始高度、突撃角度、攻撃部位等、詳細にわたり教育した。
理解してくれたかどうか実地訓練するわけにも行かぬ。
説明が終わると広森中尉は隊員を集めて話をした。

「愈々明朝特攻だ。何時ものように俺について来い。次のことだけはお互に約束しよう。今度生れ変ったら、そしてそれが蛆虫であろうと、国を愛する誠心だけは失わないようにしよう」

それを聞いて私は呼吸が断たれるような衝撃を受け、事実いても立ってもおられなくなった。
私は小群から足ばやにはなれ、とめどもなく流れる感激の、否悲しみの涙をどうすることもできなかった。
初年兵教官時代に「忠君愛国」ということを口にはしたことがあった。
が、この数年間、忠君も愛国も考えた事は実際なかった。
戦争になってからは「憎むべき米軍」一本槍で通してきた。
広森中尉の一言は深く胸を突き通したようだ。至誠至純そして素直さ。
私は恥ずかしくてその若い将校の顔を見るにたえなかった。
27日黎明、牛島軍司令官を案内して首里山上に立った。
他の幕僚や兵隊も住民の一部も今朝の特攻を知って遠く観望している。
未明である、薄明のあの短い時間を利用しての突撃である。
遠く爆音が聞える。
私の指示した離陸時刻に寸秒も狂わない。
三機又三機次いで又型の崩れた三機が次々と首里山上を過ぎてゆく。
大きく西へ旋回すると見るまに嘉手納に接敵する。
今までねむっていたように遊弋していた敵の艦砲か、周章てて動き出した。
対空火砲が火を噴きはじめた。
がもはや間に合わない。
隼のように降下する飛行機は吸い込まれるように次々と艦艇に命中する。
火炎があがり黒い爆風が艦を蔽う。
しばらくして海風が爆風を払うとそこにはもはや艦艇の姿はなかった。
一瞬の静寂。
何時の間にか山の彼方此方に一ぱい立っている兵や住民から一斉にどよめきに似た嘆声があがる。
熱湯が腹の底から胸へ突き上げて来る。
牛島司令官はつと振り向いて「中央へ電文の起案を」そして頭を垂れて隠目した。

<広森中尉>

   

以後、第一陣の「武剋隊」に続き、第二陣、第三陣、・・・と次々に特攻隊が出撃した。

赤心隊

「武剋隊」に続き3月28日に「赤心隊(鶴見國四郎少尉以下四機)」が沖縄方面特攻第二陣として、那覇西方の敵艦船群に体当たり攻撃を敢行し、中型艦三隻を轟沈、一隻ヲ炎上させた、と報じられた。

この赤心隊は、独立飛行第四十六中隊の人員・器材を主体とし、これに第十九航空地区の操続者一名および南方転進の途中、故障のため那覇にとどまっていた操縦者を集めて特攻隊を編成し、これに「赤心飛行隊」と命名して沖縄中飛行場に待機させていたものであった。

扶揺隊

赤心隊に続き沖縄飛行場から発進した特攻隊は、誠第四十一飛行隊扶揺隊(長 寺山欽造大尉)であった。

扶揺隊は既述のように武剋隊と共に満洲の第二航空軍で編成され、3月中旬、九州に前進して西参謀の掌握下に入った。

同隊は西参謀の部署により、28日午後、知覧基地を離陸、同日夕刻、沖縄中飛行場に着陸して神直道参謀の指揮下に入った。

同隊は翌29日払暁、中飛行場を離陸し、那覇西方海面の敵艦船に突入、中型艦三隻を轟沈、同一隻を炎上させたと報じられた。

なお中飛行場離陸に際して、敵の攻撃を受け寺山大尉機以下四機は離陸不能となり、高祖一少尉機以下五機が離陸、突入したのである。

同隊は沖縄直行攻撃の目的で知覧(鹿児島)から出撃したが、天候不良のため目標を発見できず、沖縄中飛行場に着陸したものである。

26.2.4.宮古島飛行場防衛

特攻による損害の予想以上に大きいのに驚いた米軍はマリアナのB29の大編隊をして九州、台湾の航空基地を制圧せしめると共に先島飛行場に対する攻撃を強化、3月下旬頃からは英太平洋艦隊も参加、宮古島の上空にも英国機の姿が見受けられるようになった。

友軍対空部隊は全力をあげて敵機の要撃を展開、飛行場防衛に全力を尽くしたが、敵機の行動はなかなか勇敢かつ巧みで容易に打ち落とせなかった。

師団情報班の記録では終戦迄に宮古島上空で撃墜した敵機は45機、同撃破50機を算えたが、陸上に堕ちたのは10数機で、残りは海上に逃れ、搭乗員は味方の水上機によって殆ど救助された。

宮古島近海の制海制空権は米軍の掌中に帰属していたので、海上にさえ逃れることができたら間違いなく助かるというのが実情だった。

日本軍陣地の目と鼻の間しか離れていない海上に堕ちた米機の塔乗員を沖縄から飛来した水上機が悠々と着水、救助に当っている光景を目のあたりに見ながら手も足も出せず、地団駄踏んで見逃がさざるを得ない日本軍将兵の心情は全く無念の一語に尽きた。

こういう場合はグラマン機が上空を旋回、日本軍の攻撃に備えるのが米軍の戦法だったが、日本軍の発砲は陣地暴露を避ける為禁止されていたので、米軍の傍若無人な振る舞いに対 しても拱手傍観せざるを得なかった。

それにしても1名の飛行士を救助するためわざわざ水上機を呼び寄せ、敵機が上空警戒に任ずるアメリカ軍の余裕しゃくしゃくたる戦闘ぶりは物量を誇るアメリカならでは容易になし得ざるところで、あまりに著しい国力の相違を感じしめる 一場面でもあった。

米機は爆弾、機銃弾の他、ロケット弾を使用したが、物凄い音響を発し、白煙の尾を引きながら飛ぶロケット弾は心理面で及ぼす影響が大きかった。

しかし空襲が定期的にくり返されるようになると、住民の恐怖心も次第に薄らぎ、壕の外へ出て畑作業をする姿なども散見され、一種の空襲免疫性の様相を呈したが、時たま大型機による雲上盲爆などが行なわれることもあり、非戦闘員や家畜がその トバッチリを被って死傷する者も出てきた。

 

4月1日、米軍はついに沖縄本島に上陸したが、この日宮古島の上空は早朝から米艦載機の大群に掩われ、終日猛爆にさらされ、両飛行場周辺は爆弾の炸裂音と機銃音の交錯で耳もろうせんばかりだった。

米機の主目標は飛行場の滑走路と誘導路及び掩体(土手を築いて中の友軍機を守る)に向けられ、250キロ爆弾を雨アラレの如く降らしたが、地上砲火の威力圏に近づくのを避けたため、弾の多くは目標に命中せず、又不発弾も少くなかったという。

中飛行場の対空戦闘は輜重兵第28連隊玉木峰司少佐が指弾 、飛行場周辺の高地及び平地に布陣した機関砲及び機関銃が要撃にあたったが、爆弾、ロケット弾、機関砲弾下のなかで対空戦に火化を散らした対空部隊の奮戦敢闘は宮古島防衛戦闘を通じて最大の華だと云える。

資料によればこの日来襲した米機の延べ機数は300機に及んだというから如何に猛烈をきわめたかがわかる。

防衛庁戦史室保管の資料によれば、4月中の来襲敵機数について判明せる分は次の通り、

(3日)140機、(5日)200機、(7日)58機、(8日)120機、(9日)77機、(10日)19機、(13日)23機、(20日)58機

米機の空襲は初め専ら軍事施設のみに限られたが、次第に非軍事施設にも及び、なかでも密集地の多い平良市街もその対象に含まれるようになった。

桟橋周辺及び市内目貫き地点にも大型爆弾と焼夷弾が落ち始め 、市街地の損害も目立つようになった。

これにともなって非戦闘員の被害も出るようになり、防空壕に直撃弾を浴び、待避中の一家が全滅 したところや逃げ遅れて機銃にやられて死傷する一般住民も少なくなかった。

とくに始末の悪いのは時限爆弾で、何時爆発するかも知れないので、落下地点付近は立ち入りも出来ず防火活動を悩ませた。

桟橋周辺には500キロ級の大型爆弾で直径三、四間もある大穴が数カ所あき、さながら小さな人造湖を思わせるものがあった。

市街地の住民で踏み止まった者は敵機の来襲が途絶えた日没頃壕を出て帰宅、食事をとってホッと一息つく調子であった。

薄暗い灯の下で僅かの憩いの時間をとる市民の表情は侘びしく、なかには住家を破壊され住む家なき市民もかなりあり、戦争のもたらす悲惨を肌で感じせしめられたが、当時は生命すらも保証し得ない逼迫した状況だったので今日の無事をかけての生活だった。

 

 

<続く>

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