見出し画像

旅日記

故郷の風景(45) 笠取りの墓

笠取の墓

浜田市三隅町黒沢に「笠取りの墓」という場所があります。

ここに古い小さな三基の五輪墓があり、観応3年/正平7年(1352年)京都岩清水八幡の戦いで討たれた石見宮(後醍醐天皇の第11皇子である花園宮満良親王の若宮皇子)、胡簶局(やなぐいのつぼね)、三隅兼知の遺髪、遺品が埋葬されていると言われています。

道路の側に案内板があり、次のように書かれています。

正平7年(1352年)5月11日京都の男山八幡で夜戦で戦死した南朝方の、石見宮(後醍醐天皇の孫)、三隅城主5代兼知(4代兼連の長子)、石見宮の乳母胡簶局(兼連の妹)の遺髪、遺品を三浦兼顕が持ち帰って埋葬したと伝えられる。

この墓の前を通る時は、どんな高位高宮の人でも笠を取って一礼したことから。「笠取の墓」といわれている。

(昭和56年3月28日 町指定)

墓の説明板は道路脇に建っており、その右横を上っていくと、およそ30m先に墓地があります。

 

この墓地の一画に三つの小さな五輪墓が置かれています。

石見宮 (後醍醐天皇の孫)、5代兼知(4代兼連の長子)胡簶局 (石見宮の乳母)の3名の墓と伝えられています。

 

石見宮と胡簶局のショートストーリー

胡簶局

胡簶局は三隅高城主三隅信盛(三隅氏三代目)の娘で、三隅入道信性兼連(三隅氏四代目)や井村城初代の城主兼冬の妹に当たる。                       

胡簶局は兼連の第二の妹で、第一の妹は西田へ、第三の妹は大草へ、第四の妹は田儀へ各々嫁いだ。                                     

幼少の頃から男勝りで負けぬ気の局は、四人の姉妹中でも一番才学に優れ、風姿も気高く凛々しかった。

特に眉尖刀(なぎなた)と弓箭の両道に優れ、女だてらに居定矢を盛る胡簶(やなぐい)を手まさぐっていたので、世の人はこれを異しんで、誰言うとなく胡簶局と綽名するに至ったという。

胡籙局の参内

鎌倉幕府執権北条高時の時代、後醍醐天皇は倒幕を計画した。

元亨三年(1323年)、後醍醐天皇の命をうけて諸国情勢を巡察していた日野俊基は石見の地を訪れた。

日野俊基と会った三隅兼連は後基の云うことに共感し、赤心を捧げて王事に尽くそうと決意を固めた。

そして、日野俊基は兼連の妹胡簶局の女丈夫たる事を知り、采女として宮中へ参内すべく斡旋の労を取った。

こうして局は、上洛し天皇の第十一皇子花園宮満良親王の養育係を命ぜられた。

日野俊基

各地を巡って鎌倉幕府打倒の仲間を募っていたのは、日野俊基であった。
このことは「太平記」にも記述されている。
日野俊基が、各地を巡って鎌倉幕府打倒の仲間を募っていたことは「太平記」にも記述されている。
しかし、太平記では巡った範囲は、木曾、北陸、東国とされており、石見まで巡って下ったことの記述はない。
日野俊基が本当に石見まで来たのか、或いはその代理が来たのか不明であるが、次のような伝承がある。


・・・・
元享三年藤原隆持石見守となり赴任した。
隆持来着後は守護・地頭との交際も円満にして屈辱的地位に甘じ世人よりは座敷陪堂(ほいとう)をなす、都にて食い兼ねし人なるべしとて其の体を見ては袖を引き合いて嘲笑せりといふ。
然るに兼連及周布兼家は何の見る所ありしにや隆持と親交を結び優待し家に長く留らしむるを常とせり。
(たまたま)隆持の三隅滞在中に一人の山伏僧が来游し降持と一面義あるものの如く座に上りて会食し談中、北條高時の狂暴にして叡慮を悩ますこと甚だしきを説くに及び二人涙共に降る。
兼連座に在り慷慨に堪えず諸人を退け鼎談密談数刻に及べり。
(いず)くんぞ知らん腰抜国守は朝廷の命を受け国情を牒知せる為め特に下国せるものにて山伏僧は右少辨俊基(日野俊基)の変装せるものなりしといふ。
之れぞ実に兼連が志を皇室に寄せし初めなりけり。
・・・・

日野俊基は元弘元年(1331年)に発覚した討幕計画である元弘の乱で捕らえられ、鎌倉の化粧坂上・葛原ヶ岡で処刑された。

後醍醐天皇はこの皇子を毅然たる丈夫に養育しようして武芸の達人たる胡簶を特に抜擢の上参内させた。

天皇の殊遇に感激した局は、粉骨砕心皇子御輔導の仕に精進した。

その結果、局は次第に昇進して勾當ノ内待となり、美濃郡二川村大字宇津川に在る、長橋の地を所領として賜はった。

そのため、世に長橋局とも云われている。

間もなく元弘の乱が勃発し、後醍醐天皇は隠岐に配流となった。

その後、後醍醐天皇は隠岐から脱出し伯耆国の船上山に行在所を設けた。

胡簶局の兄三隅兼連は、佐和顕連等の石見皇軍と相携へ遥々船上山の行在所へ馳せつけ、て京都御還幸の際も同行した。

北条高時の滅亡と共に世は急轉して建武中興の新偉業が実現したが、足利尊氏の反逆に依り、世は再び麻の如く乱れ、後醍醐天皇は吉野に遁れ、南朝を開いた。

この頃、四国の南朝軍は花園宮満良親王を奉じて義兵を挙げ、土佐の朝敵を掃蕩しようとした。

その時、胡簶局は女性の身を以てあくまでも宮に扈従し遙々と土佐に赴き、親王と生死を共にしようと決意を固めた。                             

しかし、土佐の南朝軍の戦況は悪く、一日も安閑を許さない程の危機に迫られていた。 

そこで、胡簶局は、兄の三隅兼連を頼って満良親王の若宮皇子を安全な場所で養育しようと、石見三隅氏の領内にある、岡見大山の碇石城に隠まった。 

しかし、石見においても南北朝の戦乱は激しさを増し、碇石城に立籠もるが、ここも安全ではなく更に安全な場所を求めて逃げ回りついに黒沢村まで逃げた。


 
石見宮の上洛

観応2年/正平6年(1351年)尊氏と南朝の和議が成立すると、南北朝は一時統一された形になった。

この年、この若宮は13歳になっていた。

南北朝統一によりこの若宮を中心に、これまで争っていた石見の南北両党の者が一旦仲直りすることになり、翌年の正平7年の正月元日に国府で和議が結ばれた。

そして、若宮をお守りしていた三隅一族をはじめ、 そのほか石見国内の武将が若宮を奉じ、正月の14日に吉野へ向け旅立ちした。 

最初の日は邑智郡今田村(現、江津市桜江町今田)の山神社(​​大山祇命神社)が泊りの本陣に当てられた、といわれている。

地元の人は、足がための餅を搗いて若宮のご運を祝ったという。

翌15日は旅姿も甲斐々々しく、一行は今田村を発ってなごやかな旅についた。

若宮と生母の小舞ノ典侍のお側には胡局が附添い、前後に三隅兼知・兼春・ 周布兼家ら一族が近衛に当たり、行列は五百余騎とも見られた。

一行は大貫村(江津市桜江町)へ出て坂本で江の川を渡り、牛市(智郡邑南町の廃村)を通り矢上から三坂峠を越え安芸路に入った。 

一行が吉野の賀名生(南朝の拠点)へ到着したのは、まだ雪も深い二月半ばであった。

ところが、そのとき既に後村上天皇は、賀名生の行宮を発って京都の岩清水八幡に行在していたのである。

そこで、若宮はここで武装し、胡簶局も男装して、早速若宮の一行は直ちに京都へ発向した。

 

後村上天皇と石見宮

岩清水八幡に行在中の後村上天皇は、甥にあたる若宮のことは兼がね耳にしていたようであった。

石見から遙ばる上ってきたことを非常に喜び「満良親王のお子かよ! 苦労されたのう」とやさしく言葉をかけ、その成長ぶりをつくづくながめた、という。

そして、「これより石見の宮と称するがよいぞ」と若宮に称号を与えた。


5月11日、北軍は佐々木道興・細川頼之・仁木義章らの数万騎が、岩清水八幡行宮をめがけて総攻撃をかけたので、南軍は混乱に陥り大くずれに敗散した。 

北畠顕能や千草顕経らが後村上天皇を脱出させるために、数万の敵前を無理に横切り、その中に若宮を守っていた石見軍もいた。

この防戦に努めていた石見軍は敵に取り巻かれ、このとき傷ついて自刃したものや討死したものが、石見軍だけで三百余人と史に記されている。

中でも、石見宮を守って胡簶局は、長い黒髪を後ろへ束ね、前金をはめた白鉢巻をきりりと結び、藤紫の直垂に萠黄の鎧を着けた出立ちは、夜空を焦がす戦火の明りにひときわ目 につく女武者とわかったという。 

臂力は並にすぐれて大薙刀を打ち揮い、寄り来る敵を斬り立て薙ぎ立 て、「若宮を守れませ!」と味方へ呼びかけ、馬を蹴立てて奮戦した。

しかし、敵の重囲にあって少年石見宮は討たれてしまった。

5月13日尊氏が八幡南軍敗退の由を伊予・筑紫に告げたる河村文書に、

八幡凶徒事、
一昨日十一日夜悉没落之間、 石見宮幷四條一位隆資以下數百人或打死或生捕候畢、
於所遁御敵等重而所差遺討手也、 其境之事相觸同心之輩急誅伐賊徒等可申沙汰之狀如件、
 觀應三年五月十三日      (御判)

河野對馬入道殿

とあり、「石見宮幷(あわせ)四條一位降資以下數百人或打死生捕候畢」と明記している。


また胡簶局も討たれてしまう。

三浦兼顕は、宮も伯母である胡簶局も討ち死にしているのを見つけた。

そこで三浦兼顕は宮の遺髪や胡簶局、岡田則貞の遺髪を切り取り、石見へ落ち去った。

 

笠取りの墓

その後、その遺髪を持ち帰り、那珂郡黒沢村大ヶ峠(浜田市三隅町黒沢)の西南に埋葬した。

 

石見神楽

三隅町石見神楽社中協議会のうちの「河内奏楽中」団体の演目に「三隅兼連」があり、奉納されています。

この舞に胡簶局も三隅兼連と一緒に登場しています。

<次のタグをクリックすると、youtubeの石見神楽「三隅兼連」に飛びます>

石見神楽「三隅兼連」

 

<完>

 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「故郷の話」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事