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旅日記

故郷の風景(46) 程原の伝説

程原の伝説 

島根県飯石郡飯南町井戸谷の程原集落に「入道神社」があります。

この神社に祀れれているのは、平安末期から鎌倉初期にこの地区に在住した、門脇教本程原入道という人物です。

程原集落は、塩谷川へ流れ込む程原川の最も上流にあります。

程原川は塩谷川へ合流するまで狭い谷あいを流れるため、下流域に平坦地はなく、程原集落はまさに「隠れ里」といった雰囲気を持っています。

入道神社は、文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で自害した平教経の子の程原入道を祀る神社です。

神社の周りに、「程原入道」の墓、入道の母親である「遊那御前」の墓があります。

もともと、この神社は山上にあったそうであるが、平成13年にこの地に社殿を移したと、由来記に記載されています。

入道神社由緒記

雲 石 備 三国に誇る三国山の麓、四面山に囲まれた程原は恰も九州五箇之庄の如く元暦元年平家滅亡の時、豪将能登守教経の奥方遊那御前(世を偲び本名を明らかにせざる為 世人呼んで遊那御前)といった由 。

懐妊中で従臣達の輔佐に依り 深山幽谷を越え 山深き木地屋のもとに辿り着いた。
 
そして茲に留まり住み、やがて男の子の生を見た。

成長するに従い 父教経の血を受け剛力で剛弓、集落開拓に力を致した数々が伝 説として言い伝えられている。

やがて門脇教本程原入道と名乗り、農事と狩猟を職として現在の程原の起源をつくった。

初代門脇教本程原入道の墓が集落中央の小高い山上に在り、過ぎし年、程原集落の里人達が社殿を覆い造営し、入道神社と称し尊敬し長年に渉り春秋の祭典を続行し、程原集落の人々を始め、集落に縁ある人、又近所の村人の参拝が現在に至る。

最近集落の人達も高齢化し集落外からの参拝者も減少したので茲に協議の上、永年鎮座の山上から此の処を清浄な適地と定め社殿を移し鎮座して集落の守護神として崇敬するに至った。

平成十三年十一月吉日

 

<神社の内部に掲げてある、小唄と板絵>

<入道神社に掲げられている平教経が源義経を追っていく板絵>

社の横に墓がありました。

飯南町の説明によると、大きい方が「遊那御前」の墓で、手前の小さい方が「程原入道」の墓だそうです。

 

「遊那御前」の墓

「建暦元年卒 南無阿弥陀佛 戸田能登守教経  嫡子 教本 入道」等の文字が読み取れます。 

建暦元年(1211年)に「遊那御前」が死去し、その墓を「門脇教本程原入道」と名乗った平教経の子が建立した、という意味だと思われます。

「程原入道」の墓

 

 

 

(参考)

1、平教経

文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で平家は滅亡した。

この合戦で源義経を追い詰め、八艘飛びをさせて退かせるほど勇猛な武将が平家方にいた。

平教経(平清盛の弟、教盛の次男)という武将である。

平家の敗北が決定的となった時、教経は、「ならば、敵の大将と刺し違えん」と義経を追った。

しかし義経は舟から舟へ八艘彼方へ飛び去ってしまった。

残念・無念もはやこれまでと死の覚悟を決めた教経は「われと思わんものは組んで来てこの教経を生け捕りにせよ」と大声をあげた。

教経に組み付いたのは、土佐の住人安芸兄弟であった。

しかし教盛は安芸兄弟を左右の脇に抱えて締め付け「貴様ら、死出の山の供をせよ」と言うなり、兄弟を抱えたまま海に飛び込んだという。

享年26だった。


2、教経の側室に関する伝説

「平教経には教経の子を身ごもった奥方がいた。

平家滅亡を知ると、この奥方は源氏の追及を逃れ八人のお供の者と、中国山地を越え程原の地にたどり着いた。

住人はこの姫を暖かく迎え入れ、ゆうな(「他人にしゃべってはならない」の意)御前と呼び、かくまった。

程なく御前は元気な男の子を産んだ。

豪傑な青年に育ち、能登守程原入道教本と名のった。

その後、長徳寺を建立し、集落の発展に力を注ぎ、母とともに幸せに暮らしたという。」


この程原入道には

「米俵を矢の先に付けて場内に射入れ、兵糧攻めに苦しむ兵を救った」

「大きな臼を片手で持ち4里先まで届けた」

「牛の代わりに大きな鋤を引いて牛のいない農家を助けた」

など、たいへんな力持ちだったという言い伝えも残っている。

現在でもこの集落には程原入道神社をはじめ遊那(有名)御前の墓、八人塚など、伝説にゆかりの場所がたくさん残っている。

 

「遊那御前」とは

この側室の「遊那御前」とは寿永2年(1183年)教経が中国地方で転戦し、備後に進入したときに親しんだ女性であると思われる。

平家滅亡後その縁故者として源氏側に追われたものと思われる。

 

邑智郡誌より

邑智郡誌には次のように記載されている。

雲・石・備三ヶ國に跨る中國山脈中の三國山の麓、四面山に聞まれ他部落を去る一里の山間に程原といふ小部落がある。

此の部落開拓の祖先は恰も九州五箇庄の如く、文治元年平家滅亡の時、 其の一族の隠遁せるものにて、古老の傳説に能登守教経の室有名御前(世を忍び本名を明かさざりし爲め、世人呼んで有名御前といひしとか)の懐妊四月なりしを、従臣輔佐して深山幽谷を越えて終に此の地に遁入し、文治元年四月男子を誕生す。

成長するに随ひ剛力強弓を好む。

出家して一寺を建て、門脇本程原入道と云ふ。

其の子孫數代程原入道を繼承し、土地を開拓して農事と狩猟を職した。

其の數代の墓地は部落内に散在し、何れも巨大なる自然石の墓標である。

其の子孫繁榮して現在戶數十三戸の部落をなすに至つたといふ。

初代門脇教本入道の墓石は部落の中央小高き山上にありて、其の墓石の上に社殿を造営して程原神社稱して居る。

 

3、創作神楽   

この伝説に因んで、飯南町谷地区の飯南神楽団は平成30年(2018年)に、程原の平家落人伝説を神楽化した創作神楽「程原入道」を発表している。

 

<完>

 

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