「にんじん」ジュール・ルナール
1894年に出版された中編小説
私が購入した本はポプラ社の単行本で
2015/1/2刊行
「にんじん」は私が子供の頃..確か小学校高学年あたりで読んだ記憶があります。
実家に少年少女向けの名作集があって、その中の作品のひとつだったと思います。
最後まで読んだか、記憶が定かではないですが
どうも気分のよい話でなかったことは覚えています。
「コンビニ人間」の作者の村田沙耶香さんが
小学生の時に、ジュール・ルナールの「にんじん」を読み
「最後まで絶望的であることにすごく救われ」、中学時代は同級生から「死ね」と言われ実際に死のうと思ったものの、小説を書いていて生への執着につながったと語ったそうで...
そこから私も、もう一度「にんじん」を読んでみようと思い取り寄せました。
しかし、どうやらこの作品は、子供向けではない気がしました。
大人になって初めて理解できた気がします。
読んでいる途中は、少し辛くなってきましたが、
主人公が母親から虐待を受けているのに
うまく受け流す知恵があって、わりとひょうひょうとしているところが救いとなりました。
しかも主人公は、自分も母親を愛していないという...
なんとなく思うのですが、虐待を受けていても、子供ってお母さんが好きだったりしませんか?
そこに悲劇が生まれるんだと思うのです(個人的感想)
主人公の少年は髪の毛が赤いため、家族から「にんじん」と呼ばれ
しかもそれは愛称とか、あだ名とか、そんな生易しいもんでなく
侮蔑を込めた呼び名であることが、本編を読んでいてひしひしと感じました。
母親は、なんでも面倒なことはにんじんにおしつけ、よくひっぱたく
兄弟たちからも見放されている..
唯一、お父さんはにんじんを可愛がっているようにみえるけれど
どうやら世間体を気にしているらしい。
作家の村田沙耶香さんは、この作品を「最後まで絶望的であることにすごく救われ」とありましたが
私は少し違った感想です。
物語の最後のほうでにんじんは母親に反抗します。
母親からお使いを頼まれるが「いやだよ母さん」と断るのだ。
にんじんが母親のいう事を聞かなかったのは初めてだった。
そして「父さんのためなら、父さんだけのためなら、ぼくいくよ」と言う。
とはいうものの、父親としては迷惑だったようでしばらくこの事件は、おあずけとなった。
その日の晩、にんじんは父親と散歩に出る。
そこでにんじんは、母親と一番簡単に別れられる方法を教えてくれと父親に持ちかける。
にんじんは全寮制の学校に通っているらしく、「年にふた月、休暇で顔をあわせるだけだろ」と
父親に言われる。
そこでにんじんは、休暇中も寮に残ったらだめか聞くが、それは貧しい生徒だけに許されることだよとたしなめられる。
それなら寮から出て、手に職をつけるよというが
父親から、「もう手遅れだ。残念だがな、にんじん。
いままでおまえの教育に、わしが大きな犠牲をはらってきたのは、くつの底に釘を打つためではない。」
するとにんじんが「だったら、父さん、もし、ぼく自殺しようとしたことがあるんだっていったらどうする?」
父親は「おどかすんじゃない。」と言いながらあまり真剣には受け取っていない様子でしたが、
実は内心おどろいていたのかもしれません...
いろいろと話すうちに実は父親もにんじんと同じで妻のことを愛していないらしい?
父親から「じゃあ、にんじん、おまえ、しあわせをあきらめてごらん。いっとくがおまえは、
いまよりしあわせになるということはない。ぜったいに、ぜったいにな。」
子供に対して言う言葉ではない気がするけれど、にんじんだったら理解できたかもしれない...
さらに父親から「あきらめろ、強くなれ。はたちになってじぶんでじぶんのことができるようになるまでな。そうすれば自由になって、わしたち家族と縁を切って、家をかえることもできるんだよ...」
この父親の言葉を聞いていて、なるほど、そうだなと思った。子供には酷な言い方だけれど
状況を変えることができなければ、いったん、しあわせはあきらめて保留にして
目の前にあることをたんたんとこなして、準備が整ったら環境を変えること。
にんじんの場合は学校を出たら就職して、お金をためて自立することがいいんではないでしょうか?
だから、私は最後まで絶望的だとは思わなかったんです。
むしろ希望があるのではないか...
それにしても、子供に自殺まで考えさせてしまう母親からの虐待って..
なんだか悲しいですね...