花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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TVで拝見できる素敵な時

2024年06月29日 | 日記
イギリスと日本は 昭和天皇陛下の外交のご様子が
新聞や、アサヒグラフや、、多くの雑誌で拝見したことを
今でも昨日のように鮮明に覚え栄ます、
       私たちのように、、戦争のさなかに生まれたばあちゃんや爺ちゃんが

          日本とは?

         天皇陛下とともに千年単位の日本文化を継承してきた、、、、

              世界に一つしかない、、、年月が作り上げた天皇陛下の

                 君臨すれども、、統治せずという、、、

                  時代耳朶の武士たちが

  皇室を、支えてきたという、、、歴史的にも、、、唯一無二の

          卑弥呼の時代から、、「日、、、出ずる国」と

         70年前の小学校では、、教わったのですよ、、、、


          ばあちゃんのころは(自分を主張するのではなくて、、、昭和10年末代に誕生の小学生は、、、)

             沖縄のはアメリカの占領軍がいて

               社会科の先生は、、、小さな声で

                   アメリカの兵隊は

            「占領軍じゃないよ、、、、進駐軍なんだよ、、」

          何のことかもわからずに、、、進駐軍がくれるチューインガムを

              受け取っていましたね。

           何も、、、事の重大性がわからない年齢の時代でしたから、、、

           疎開先の
               山の奥の小学校の下の道を

           ジープに乗ったアメリカ兵が、、、子供らに

            チューインガムをクレルのを、、、

           もらっていましたね。

         疎開が終わって、、、小学校6年生の時、、、

             父は疎開先に引き止められて、、、
                母と子供たちだけが

          一足先に、東京の下町の「お寺の跡地に越してきました。」

             

          父の実家は市ヶ谷で、、文人通りと呼ばれている通りとも近くて

           父は文学者と出会う市ヶ谷のことを、、しばしば話してくれました。
           与謝野晶子、、、こんな字でしたか??ご夫妻、、

             有島タケヲさんと波多野明子さんには、幾度となくであったそうです。

            有島さんは、おじいちゃんの借家にいたそうです。
           北海道の大きなおうちの坊ちゃまで、、、たくさんの農地をお持ちの家だったとか。

            波多野明子さんは当時としては珍しい女性なのに、キャリアウーマンで

            ベレー帽をかぶっていたそうです。

           有島武雄さんの作品に、、、「人房のブドウ」というのがありますが

           教科書にも出ていましたね。

            原稿を取りにいらっしゃる波多野さんは、、有島さんと

              恋の道行と、、、なったとか、、、聞いていますが、、、
           本当かどうかは知りません。

           ともかく、、市谷かいわいは、、、
          歌舞伎の俳優も、、、散歩しているというところだったらしいです。

          父の生まれた実家は、、すでに亡くなっていましたから

         陣地や、戦争孤児や,、、陣弛のある、、
          開業医を必要としている地域で
                地域貢献型の開業を
                   するとよいと思ったのかもしれません。

          、下町の江戸川の近くの、、お寺さんの跡地の周りは

        陣地???こんな字を書くのだろうか??、、それとも「陣弛? 陣置?」
            よくわかりませんが、、、地元の人たちは「じんち」と呼んでいましたね、、、。

            バラックのような、、、兵隊さんがいたのだろうか??

         兵舎とも違う、、、簡易避難所のボロボロになったような家が建っていた。

       駅の北側は、、、一人では歩きたくないような、、、細い道がありましたね。

           校舎のような二階建ての長屋のような建物がつながり、、、

                アメリカの兵隊さんを対象に商売をされていた人の住まいだと
                   地元の人は言っていましたね。


             

        2年後に、、父は、、人生で初めて、、、
         自営という、、開業を、、お寺後にしたのでした。

           戦争に行っていたが、帰国できた母の弟さん家族や
            学徒出陣で、、運よく帰還できた10歳年下の父の弟さんとか
          ダム建設が終わって、ぜんざいsンを寄付して
            恩給だけで質素に暮らしたいという祖父も、、、
         疎開地のにわか銀座は、、あたりの七つの村で唯一の医師のいる診療所から
            医師がいなくなるというので、、、一人、、また一人、、、
             村は3000人以上いたはずなのに、、、疎開で人が集まる前の、、、
            元のひっそりとした集落に戻ってゆきました。

          その後の話では、、、集落の奥に、、北大の森林の研究のための
          宿舎が建ったとか、、聞きました。。。。けれど

            ダムで、川の水が濁ってしまい、、、20年間ぐらいは、、川の魚は
           誰も取りにyかなかったそうですが、、、
            ダムは、水没した家族が生きてゆけるようにと
            観光地として、、雇用を生んだと聞いています。

          ダム工事に奔走していた祖父は、、ダムが出来上がると
          すべての労力は、
                ダムが沈めてしまった村の人々に継承されて、、
                 祖父は全財産を寄付して

                ダム工事のために、、洗浄まで娘婿だった外科医を疎開させたのですが
           娘夫婦が役目を終えて、、東京に帰る日に、、一緒に、家族ともに
             故郷を後にしたのでした。
          役目とはいえ、、、湖底に沈んでしまった村の人の悲しみを

             背負って生きてゆく自信がなかったのかもしれませんね。

           祖父は、叙勲されて、、東京に来てからは
            皇居のお掃除に行くのを楽しみにしていましたね。

          開業した父は、、10年の命も持たなかったのですよね。
           戦争で疲れ、、、ダム工事の外科医として、、村人の支えを遂行して
            東京に帰還できたところが、、育ったところとは
            全く違う下町で、、、開業したのですから、、、

                54歳で、、過労死するのも、、、全然、、、不思議ではないという
             激務続きの、、、戦争の被害者といえそうです。
           父、、、本人は、、、過労死で、、突然死んでしまったのですが、、

           穏やかな、、壮年期の、、恰幅の良い体を横たえて、、、
             眠っているような、、、穏やかな顔をしていました。

           私が19歳のときでした、、、、ありがとう、、お父さん。

            ゆっくり、、お休みください。

         戦争は、、、見えない疲労を伴うものなのですね。

             戦後、、小野田さんという、、兵士が、、帰国した事件がありましたが、、、

           みんな一丸となって、、、日本の国の存続のために

          たたき続けたころに、、、ばあちゃんは、、生まれちゃって、、、
         80歳になろうとしている今日、、、
            こうして生きているだけで、、、天皇陛下ご夫妻のイギリス訪問がTVで観れて、、

         イギリス国王陛下に日本語で,、、「おかえりなさい、、」、と、
     、家族の親しいお言葉で、訪問の歓迎をお受けになっている画面を見ながら

             昭和天皇陛下...平成天皇陛下ご夫妻、、、そして令和の天皇ご夫妻と

              皇室とイギリスの日英外交の交流の素晴らしい継続が

             こんなにも素敵な、、、国と国の、、、交流ができるのですね、、、、!!!

          感動しましたね。

           国王様自ら、、、日本の天皇ご夫妻に、、、
              あたたかな、、スキンシップで、、、国民を感動させてくださいました。

            雅子様も、、、外交官にもできないのでは、、、と思える
               国王陛下の親しみのあるスキンシップには、、、

              TVで画面を見ている日本国民は、、、
       「イギリスへの深い親しみ「を
                しっかりと感じることができましたね。

              父は慈恵会医科大学卒業生であり
                    大学に勤務していました。
                        当時、、、、慈恵会医科大学は
                    宮様方のご健康を、
                    イギリス医学で、健康管理に寄与されていたそうで
                        天皇陛下、、皇后陛下のお写真もありました。
                    宮様方が、、、慈恵会病院に、お見えのなっていたという
                        大学病院であったそうです。

                やがて戦争が始まって、、、戦地には、将校の健康管理にと
                   慈恵会医科大学卒業生も、、、戦場の近くの病院経営者として                
                     インチョン界隈に、医療施設が建ったそうです。

          昭和11年のころは、、
           父が院長で、
             日赤の提灯袖の看護婦さんが
                  戦場近くの総合病院に並び、
                       日の丸と、、海軍の旗の交差する病院の前で

                                全体の総合写真が、、、戦後の我が家にありましtが
         父が54歳で早逝してからは、、、
          家族ばらばらになりました。
            実家はなくなり、、、更地になって売りに出された病院あとは

             ネットでも見るにつけ、、、
               東京に、帰るといって、、、帰えるチャンスを失ってしまって、、、

            守ることができなかったことを、、、残念に思います。
           
           戦場で働いた医師の先生方の集団の写真がのこっていたアルバムも
               すべて、、、業者に一任して、、、片づけてしまったそうです。

               一つに時代は、、、、終わりました。


            日の丸の旗と、海軍の旗が交差していたから、、記憶に中には残っています。

             戦争は終わったのです。記憶も消し去るべきなのでしょう。
            記憶の中の写真の画面は

          戦場の近くの病院なのだろうと、、推測している。

        開戦まじかの緊張した写真のようにも,、、見方によっては思えてくる。

               歴史の中に語られる記事は、、、本当かどうかは、、、だれもわかりません。

       日本は、、、軍隊が、、、天皇陛下を頂点にして戦争を始めたらしいのです。

         みんなは信じています。、、、天皇陛下が戦争を始めるわけはありません。

           親が子供のやらかした責任を取るように
              昭和天皇陛下は、、
                  ご自身んで、、
                     すべての国民の責任を
                       お受けになったのだと思っています。

         日本の軍隊が、、アメリカの戦争に、、巻き込まれていったのでしょう、、、たぶん、、、
          昭和天皇陛下は、、 すべての国民の戦争に対する責任を、、、親が子供の責任を取るように
           ありのままを、、受け止めてくださったのだと、、ばあちゃんは信じています。
           政治も、、世の中のことも、、、疎いので、、、

        本能で信じることにしています。

          「いつの世も、、、皇室は、、
                      天皇様は国民とともにあるという、、」

             日本の歴史の、、、天皇様という存在を、、、日本の文化そのものとして

          理屈はいりません、、、ね。

          日本の国を守ろうと、、、戦った若者たちは、、、

           日本国、、、天皇様のいらっしゃる、、、何千年単位の文化とともに

            日本のために戦った兵士は、、、

          天皇陛下万歳!(日本そのもの、、、日本文化そのもの、、、戦争という文化の中の一つの出来事、、}

              日本の象徴でいらしゃるという、、、日本人に備わった文化。そのもの、


         大上段に構えた教育とか、、権力とか、、国民を統治するとか、、、
          具体ではなくて、、、天皇陛下という、、、存在そのものが、、、

           日本人は風土とともに、、、宇宙含めて光の恵みのもとに

              地球という、、、人類が住んでいる星の、、

                多くの生命体のように、、、光によって生かされ続けてきたような

           言葉にも、、文にも、、宗教にも所属しない、、、感覚の世界で

            卑弥呼から、、何千年単位で引き継がれた、、、繊細な感性が

            日本人そのもののような気がしますね、、、

          伊勢神宮の川に降りてみても、、、橋を渡ってみても、、、

          おかげ横丁で、、庶民の民の中に紛れていても、、、

           透明の光が注してきて、、、心が、周りのすべてのもののなかに

          拡散して、、、光の粒子の一粒になれたような

           ユウタイ分離のような、、、粒子になって、、自分で自分が

          周りの風景に溶けてしまうのを見ているような気持になりますね。

           天皇様がいらっしゃる日本という国、、、

         光かもしれない、、、文化かも知れない、、、、水なのかもしれない、、、

         ともかく、、、アメリカとの終戦という、、歴史の中で

          皇室があり続ける以上、、、日本の千年単位の文化は、、、今日まで、、、

          一滴の水から、、川となり、、滝となり、、、日本国民という、、、

           時代を流れる大河のようでもあり、、、天野川に続いてゆくようでもあり、、、

        人間という、、、頭脳という宇宙の、、、限りない世代を超えて生き続ける遺伝子の中に

           光の粒子のような天皇家の文化が命とともに生まれて

          日本人だと、、、そして、、ばあちゃんは、、、その、、時代の大河の一滴だと、、

          何を言っているのかわからなくなりました、、、、天皇様は

          世界規模で、、、素晴らしい、、
          イギリスの、エリザベス女王陛下は、、、おとぎの国のお話のようでした。

        ばあちゃんのお母さんなどは
            話してきかせてくれながら、、、現実を超えて、、夢の世界の話のように

            神々しくさえ思えてくるような様子で、、
           イギリスという国のお話をしてくれました。

           世界を、産業革命や、、七つの海を近代化に導いた時代。
           紅茶の、、、お話をしてくれたものでした。

          「WEDGWOODの紅茶」などを、、

          デパートまで買いに行ったものでした。

            

          1759年来の歴史のある紅茶を、、、瀬戸物のような細長いポットで

          熱いお湯を入れて、、ポットカバーで冷めないようにしているのか?

          紅茶を香よく飲もうとすると、、、余熱を使ってお茶の香りが逃げないように
           沸かさないで、、熱を逃がさないようにして、、香りごと楽しむのか?

           母は紅茶に「こだわり」を持っていましたね。

          相棒の特命係の杉下刑事さんが
              手を高く上げて、、、入れるような、、紅茶の入れ方はしませんでしたが

           「アールグレイ」より、、、「ダージリン」が好きだったようですね。
            地中海の果実の香りより

                東洋の竜眼肉の香りや中国のお茶のほうが

              東洋人のお母さんの好みだったのかもしrません

            紅茶の世界に。。。こっているほうでしたね。

           ピアノの教室を子離れしたころから、、、ライフワークにして、弟子を育てる人生でしたが

            レッスンの後、、
            イギリスの紅茶の缶の中から、、、

           楽しそうに選んで、、、紅茶時間を持っては、、、
           いい顔をして、、、楽しんでいましたね。

          母は、、戦前の音楽大学に通っていたせいか、

           当時は、クラシックの譜面さえ、、日本には普及していない時代だっただけに
           イギリスの国は、庶民の母にとっては

           おとぎの国のように、、、夢の国だったのだと思いますね。

           知人の先輩には、、、あの、、ベートーベンの運命の楽譜を
           ドイツから持ち帰ったという、、、近衛さんが

           ドイツの音楽家を日本に紹介したのだとも言っていましたね。

           イギリスの音楽が日本に入ってきたのは、いつだったでしょうか?


              

           昭和天皇陛下が、、、大正天皇陛下の摂政ををなさっていたというようなお話と

             イギリスにいらっしゃって、、、エリザベス女王陛下のお招きで

           おとぎの国のようなお話を、、してくれたことを思い出すのです。

          父も母もなくなって、、、薬剤師として、子育てのためにも
          現役で働いていたころのことです。

          ペニシリンをアオカビの中から発見した「フレミングのシャーレ」を見に

          イギリスの病院に見学に行きました。

          その病院には、、
          フレミングの「ペニシリン発見のタブレット」のような丸い看板がかかっていて

           入り口を入ると、、大きなフロアーになっていて

            「エリザベス女王陛下のお写真」と、、
        「フレミングのシャーレ」が展示してありました。

            イギリスには学会参加で,行ったこともあり、、、

          見学した、、、イギリスの病院は
         地下全体が、、、本や実験器具や、、調剤室の製剤室になっていて、

         日本の病院と、違っていたのは、、

          日本は、大学関係の系列の病院として、、、

         学術や研究は大学で,、
           病院は臨床医のための診療や手術という

          役割分担んがはっきりしていて、、、
           日本は医師の研究分野には、、、予算を充ててはくれない時代が長かったそうですね。

         日本の政治家は「医学や医療」や。
            「臨床現場」や、「基礎医学や保健衛生」、、
             「免疫分野」に「医療ネットワーク」や
             日進月歩の医学への医師の投じている頭脳の維持費に
            精通した政治家はいないといっていいでしょうね。」

          コロナが日本を襲った時の、、、保健所のパニック状態と、

           ゴミ袋が医師や看護師の感染のプロテクターになっていた現状や
           50歳になっても、、、結婚する気にはなれない医師が増えてきているという
           働き方改革が、、、法律を変えれば、、医師が休めると思う政治家に

          どうしたら、、医療界の、、、時間貧乏な、、時間をお金で買わねばならない現状を
          政治家さんの先生方は、、、上から目線でなくて、、、

          医師の周りは、、、ボロボロになって、、、医師をすることのサポートを
          必死で担当して、、、自分時間がない人生を余儀なくされているかという現状が

           coronaの対策時に片鱗を見たと思いますよね。

           ホテルの部屋があれば、、、入院室の代わりになると思う政治家、、、

           イギリスでは医師は「サー」という称号がつくそうですが、、、

    

            戦後に、がんセンターが

         研究と臨床を備えて築地に、、新しい病院の先端の形を見せて
         日本も、イギリスのように臨床と研究が備わった病院ができたことを

         イギリス医学を習って医師となった父は、眩しそうに、がんセンターのビジョンを

         話してくれたことがありましたね。

           見、、、30年も前のことですが、、、
            当時はイギリスに行きたいという気持ちでいっぱいでしたね。

         イギリスに仕事の一環としてではあるけれど、、、
           東京大学の先生にお誘いを受けて、、参加できたことは

             私のように、、一度は家庭にひっこんだ、薬剤師にとって

              忘れられない、、人生の、再発見でしたね。

           1400年代から、、、ねっこの株分けを忠実に守って、、

            「薬草の原種」を守り続けてきた「チエルシー薬草園」に立ち寄れたことも

          イギリスが、、東洋にもたらした、、ねっこの深い植物学を感じましたね。

           日頃の愛読書に、、、デイオスコリデスの 薬草の画集がありますが

           植物の原種が想像できる、、、、、簡略された、、植物の画集ですよね
          シーボルト博士と、、、ヒドランジア  オタクサ、、、、

             西予の借仏学の画集とは違いますね。

              おたきさん、、、、アジサイの話は、、多くの人の知るところですが

           デイオスコリですの世界や、、チエルシー植物園の世界は

             人と、、植物と、、薬草という、、、出会いと、、、大切に守りとおした

              薬草成分の、、、科学のない時代の知恵と努力と植物絵の敬愛の伝わってくる
             自然に対する支店の違いを、、、学問と称していいのかもしれない
            ヨーロッパの国々が東洋にもたらした植物の学問の深さは

               ある種の、、対象とすることへの「愛」を感じましたね。

            紅茶や、、ハーブや、、、薬草や、、修道院の薬草などとなって

            漢方薬などとまじりあって、、、シルクロードを旅してきたことが

          なんと、、、地球って、、

               どの国も、、つながっていることなのでしょうね。


            イギリスでは、、園芸や、、、植物のアートなども、、、

            キュー植物園んを,、、知ったことも、、大きな意識改革になりましたね。

           帰国してからの、、私は、、機会あるごとに、、、

         生薬学会の主催する「山の中の学会」に参加するようになりました。

        イギリスに行って、、ウエルカム医療博物館で

             初期のころのCTの機械の展示を見たとき
          イギリスの産業革命が、、世界の化学をけん引し始めた時のように思いましたね。

         ニッポンンではがんセンターでCTの開発が始まったばかりのころ

         すでに、1号機が、、展示されていたのを見て、、、

          王国だったことが、、、文化的にも、、、

         発展が早かった国であることに驚かされましたね。

        一人の専業主婦だった、、北海道の留萌、、余市、、旭川、、と

         転々と、、無休医師の時代に、、ついて回りながら

              お風呂のない二間の部屋で、、、
            不衛生な、、湿気にこもった布団のくるまって

           北海道の医師の無休い時代は、、誰かが支えないと、、、
          一杯のかけそばから、、医師になっても、、、
           医師をするところまでは、、、遠い道であると思えた。

           無休委でお金がないのに、、大学に残る旦那さんの
              一途な、、
             自分しか見えない時代を

            支えなければ一人の医師が、、、意思をするまでに至らないだろう、、と
            支えれば、、、立派に世の中に貢献して、、かんじゃさんを治療してゆくでしょう、、
                 
          いっさい、、、家庭を振り返る余裕のない、、、戦中に生まれて、、
            貧乏のぞん底から、、復活してゆく時代の、
            無給医師と出会ってしまった。 

            過程を振り返る一切の余裕のない、、
           自分しか見えない戦後の医学生の担当になった。    

            子育てに悩んでいました。

          幼稚園にも行けなかった、、、移動生活の中で

            私が息子にしてやれることは

           教科書や、、塾や、頭の知識では、、移動生活は、、レベルに達する条件下にないと

         親の責任を感じました。

          ともかく、、、体験的に、、理屈は大人になってから考えればよい!!

         イギリスの、田舎町に、、ホームステイで、一か月、、
          目から、、皮膚から、、耳から、、五感から、、、

          イギリスを感じてくることを、、、実行させて

           短期移動の変則生活の息子に、、、学問や知識より、、、
            神様、、、この子に、、生きる力を与えてください、、、
            祈りながら、、、電話のそばで寝ながら、、、未熟な 高校一年生を
           イギリス留学に出しましたね。

           このまま、、自分でいっぱいの旦那さんの子供として育ったら
          生きる力が授からないと思いましたね。
          生きる力がない人でも、、、知識に走って、、医師になってしまえば
           サポーターは表れて、、、意思をすることの大変さに免じて

           多くのスタッフが支えてくれる。
         日本の、、北海道の、、、国立大学を卒業できれば、、、
           生きる力に化けてしまう。

          このタイプの医師と結婚すると
          育児も、出産も、、生活の諸々も、、
           すべてが女房の肩にかかってくる。

          この種の医師に取ったら、、、女房は、、番犬と変わりはない。

          家を守らせて、、、何かと社会の保証人になってくれさえすれば
          女房の座布団に座らせて、、、家事の中に閉じ込めてしまえば

          早朝家を出て、、夜遅く帰ってきて、、、
           自分の時間は100パーセント、、自分で使うという
          簡単明瞭な、、、自分が主役の仕事人間だから、、、

           政府の働き方改革など、、、自分のスケジュールには、、、
           入らせないでマイペースだ、

          子供の作文には、、、、

           お父さんはたしかにいる、、、しかし、、いないみたいだ、、、
           お母さんは、、家を守っているのは、、すれ違って会えないけど
           パパが、、僕たちを守っているのだという。
           お父さんは神様みたいに、、、いないみたいだけど、、、

           ママは、、お父さんがママの手足になって、、僕たちを世話もしているんだといった。

         この作文を、、家庭訪問で、担任に指摘されたとき

           貧者の一灯の気持ちで、、イギリスに、蒸庫を送り出しました。

          息子たちがが辿ったイギリスの街を歩きながら、、、

          私自身、、、40歳を過ぎて、、息子たちの留学したイギリスにやってこれたのでした。

         一人で、、、ピカデリーサーカスの交差点に出ました。

          旅行着の 木綿の上着で、似顔絵かきの椅子に座りました。

           初めは面倒くさそうに、、、営業の話題で話を始めた彼に

          受け答えをしているうちに、、、だんだん、、個人的な話になってきて

          その外套の絵描きは、、、
          北海道を、、絵筆ひとつで旅をしたことがアルト言い出しました。

           すっかり心が通うような話題になり、、、残された旅行日程で

          何を見とくべきかを、、、絵描きさんの旅慣れた目で教えてくれました。

         ピータ-パンの造像のある公園や、、公園のそばの、貴族の通りにも
         門番の兵隊さんが、、、話しているうちに、、見学させてくださいました。


          イギリスの朝は、、ロイヤルホテルに宿泊したこともあり

          早朝に、、騎馬隊が、、街をゆくんですよね、、、、王国という感じでしたね。
          職場復帰した月給のすべては、、我が家の文化向上費として
          スッテンテンイなるまで、、、経験を買い取り

          頭でっかちでは、、生きてゆけないと思い、、、
            生きる力になる、、、経験を、、息子たちに、、、 

         かまってやれない、、お詫びに、、、背伸びして、、体験させたのが
         イギリスのラムスゲートの、、学校でした。

                  

          結婚しないで、、薬剤師として人生を貫いた同級生のみんなは

          子供や家庭は存在しなくても、、、世界を回って、、、話が零れ落ちる経験に

          日本の家庭婦人の閉じこもった生活が、、、
           母親そのものが、、、孤独で、、、相談相手のいない、、よそ者の立場で
            周りに入ってゆけないという、、母親だった。
            子供を育てそこないはしないかと

         考え込んでしまいましたね。

         皇室外交から学ぶことは大きいですね。

         日本は、、、皇室の外交を見習って、、、各自が、、世界の家族と

         交流してゆくべきかもしれないと、、、

          イギリスを発って、、、フランスに向かうヒコーキの中で

          その近さに、、、肌から感じる近さに、、、考えさせられるものがありましたね。

         パリ大学に立ち寄って、、、科学の教室に、

        ノーベル賞が額に入っていて、、、教授の研究室が保存されていました。

          大学の付属の植物園には
        「マンどらゴラ」の、、なすびのような、、、
                     トマトのような実がみが

                       まだ青々とした色で、、地面にへばりついて実っていました。

        女性が結婚をして、、家庭に入ったきりだったとしたら、、、

         私は、、ヨーロッパも、、中国も、、韓国も、、アメリカも知らないまま

         子供の親として、、、年の功ばかりの意見を言っていたかもしれない。

          私立大学に進学した息子たちの、、授業料は、、、大学職員のダンナさんの給料では払えなくて

          過程を一時凍結する気持ちで、、、単身赴任していったちと屋の後は追わないで

            40歳過ぎてからの、、、薬剤師としての、、職場復帰だった。

         単身赴任で国立病院の医長となって、、、50万前後の給料で

         私立大学生二人の授業料は払えない、、、。

           札幌と地方とに分かれたん家族を維持する月給はとてもじゃないが

              足りなかった。

           こんな時のために、、、薬剤師になったのだから、、、

           とにかく、、、お金を稼がなくっちゃ、、、 私立大学の医学部と

          私立医大のやくがくぶの授業料だけで、、、

          一度返した、、家のローンに、、その実績を踏まえて、、

            ウワノセシテ借りた授業料は、、、20年ローンにしてもらいました。

          苦しむより、、、稼いで早く楽になりたかった。

         塞翁が馬とは、、、よくいったものである。

          一か月、、、残業手当がほしくて、、、290時間という仕事場であった。

         北海道は、、薬剤師が足りなかった、、、そのおかげで、、、

            綱渡りのような、、、大学進学をやってのけられた。

           つらい事ばかりではなかった。

           大学時代の恩師の先生はじめ、、金沢大学の御影先生の主催された

           白山登山などにも参加できて、、、

           韓国の済州島の日の出峰の「薬草探索界にも参加させていただいた。」

           息子が卒業してしまった後は。。。元の主婦に戻ったが、、、

          同じその日暮らしでも、、、心はリッチになっていた。

          現場復帰で、、、同僚と過ごした学術の世界を通してみたイギリスは

          日本にとっては、、、どんなに大切な、、、多くの魅力に満ちた国であるかを

         薬学会に参加して、、現地入りできたことから、、、

         日本の薬局とはまた、、異なった、、専門薬局を見学できたのでした。

         食紅や、その他の口紅、、、色の世界の色だけを売っている薬局も見かけましたね。

         皆さんの薬局には、、、蛇の看板が掲げられていて、、、

          その店ごとの専門性が色濃く出ていて、、、

         医療に従事する薬局ももちろん、、病院は専門家集団でしたが

          町の薬局のレベルの高さには、、考えさせられるものがありました。

          薬草専門のコーナーには,、、デルフィト焼の、、瀬戸物のビンに

          見事な美しい薬草の花の咲いている絵が描いてある容器が

         美術館のように並んでいて、、、これが、、薬局なのかと、、、

         原宿道路のコーヒー屋さんの、、、凝りまくったカップの棚を見ているように

        薬草の香りが香ってくるような、、、展示の仕方であった。

        皇后様と、カミラ王妃が、、お会いできてよかったと思いましたね。

          タイプの違う女性として、、、その役割も違ってくるという

           ダイナミックな、、女性の地位の、尊厳が守られちゅく民主主義のような

             幅の広い、ヨーロッパの考え方に、、、

              王様との、、ほほ摺り寄せるお別れのご挨拶が

                人間としてのあたたかな 交流が、庶民の私たちにも伝わってきて

            イギリスに「ご招待」された、、日本の天皇皇后陛下に、、、

            王様は、、、「お帰りなさい、、、」とおっしゃられていました。

           感動で、、日本国人の80歳のばあちゃんの目が、、、

                    思わず、、感動で、、、ボートして、、TV画面に引き寄せられていましたね

            素晴らしい、、、家族のような、、、おもてなしの言葉に

             ただただ、、、尊敬と、感動と、、感謝を、、、

           日本の皇室外交は、、、だれもできない、、、歴史の流れの中の

                    絶景の風景のように、、、ただ、、見上げて、、感動するばかりですね。

           ばあちゃんは、づきあいが下手だから、、、あっとうされました。

               王様の、、、「おかえりなさい、、、」と、、日本語のお言葉には

      

          

            



        後で遂行して、、書き直しますね。。。とりあえず感じたことのメモを残して、、

          夕飯の買い物にゆかなくっちゃ、、、現実に戻って、、洗濯物取り込まなくっちゃ、、、

          ドタバタ人生の現実に、、、うんざり、、、暑すぎる北海道、、、31度だよ!!

          

          


          

             家族のようなおつきあいをじっこうされている、、、

         素晴らしいスケールの、、友情は、、世代を超えて、、、継承されてゆくものなのですね。

         エリザベス女王様は、、あたたかな笑顔で、
               若い日の徳仁殿下に接していらっしゃるお写真は

                    光のように、、、まぶしい、、あたたかな、、、永遠を感じますね。

         日本人は、、、にぽんの文化とともに、、、皇室とともに

           世界の国に、、、文化の光を持って、、、友好国になってくださいますように。

          ばあちゃんは、、何事のオワシマスカの次元は届かなくても、、、ありがたくって、、、

          ニッポンンが、、、未来永劫、、、世界の友好国になって文化の光となってあり続けることを

          祈っている、、、大河の一滴です。

          明日は滝ノ下かもしれないし、、、雲になっているかもしれません。

              一滴の命を生きたばあちゃんは、、、天皇様のいらっしゃる日本が

                ばあちゃんの、、国ですよ!!

             世界中がパン食になっても、、、稲穂の輝くお米で、、、 ご飯が主食の日本人ですよ

            

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