平成21年6月25日(木)昨夜から長野県北西部にある道の駅「しなの」で、妻と二人、車中泊をしていて朝早くから目覚める。
昨日、霊仙寺湖畔にある温泉「天狗の館」で入浴、体がよく温まったせいか、ぐっすり眠ることが出来た。
どうやら今日も快晴の天気のようだ。
道の駅周辺は、高い山に囲まれながら、初夏の緑豊かな高原独特の風景が広がっている。
目の前には黒姫山(標高=2053m)が、なだらかな流線を左右に現しながら、美しい姿を目前に現わしている。
右斜め方向には、道の駅の広い駐車場の上に、妙高山(標高=2454m)が手前の山(笹ヶ峰)と一体になった、誇らしい姿を見せている。
黒姫山と妙高山は、共に火山活動の歴史があり、黒姫山の頂上部には、噴火口や中央火口丘が形成されている山でもある。
また、黒姫山は、古くから信仰の対象とされ、別名信濃富士とも呼ばれ親しまれている。
黒姫山の同じ山名には、新潟県糸魚川市(標高=1122m)や柏崎市(標高=891m)に所在する黒姫山がある。
一方、妙高山は、新潟県妙高市に所在する活火山で、日本100名山に指定され、上信越国立公園に属している。別名は越後富士とも呼ばれている。
この山は、長野県との県境に近いことから、長野県側からも北信五岳(飯縄山=1917m、戸隠山=1904m、黒姫山=2053m、妙高山=2454m、斑尾山=1382m)の一つとして親しまれている。
私たちは洗面を済ませ、朝食を外で摂る事にした。
早速、常に持参している折りたたみ式のテーブルや椅子を出して食卓をつくっていく。
パンやおにぎり・ヨーグルト・果物などを並べ、朝たてたブラジルコーヒーを用意して、美しい山と高原が一体となった、周りの景観を見ながら摂る朝食も、また、格別であった。
初夏の、高原特有のさわやかな風が、時々通り抜け、心地よさが旅情を一層高めてくれる。
程なくして、朝食も終わり、周辺の観光に出かけることにした。
道の駅から国道18号線に入り、暫く行くと「小林一茶終焉の地」と書かれた看板が目に入ってくる。
早速、専用駐車場に愛車をとめ、散策することにした。
道の駅「しなの」からの妙高山(標高=2454m)
道の駅「しなの」からの黒姫山(標高=2053m)、右は妙高山
テーブルと椅子を出しての朝食、さわやかな高原の風と、周りの景観を観ながら摂るブラジルコーヒーの味も、また、格別である。
駐車場の前には土蔵があり、国道沿いには藁葺きの家が建っている。
その横には老大木が生い茂り、前には石碑が立てられ 「一茶翁終焉の地」 と彫られている。
隣りには、一茶の俳画を彫った木版画の土産物店があり、一茶の句にその情景を描いた版画が店頭に並べられているが、朝が早いせいか、店の主人はおらず、無人になっている。
その奥には、広い駐車場を伴った物産会館があり、中央には筆を持って一筆を案じている小林一茶の像が立てられている。
小林一茶終焉の地 小林一茶の像
小林一茶が住んでいて亡くなった土蔵の家と、道路沿いには弟の住まいが立てられ、当時の生活に関わる色々なものが展示、掲載されている。
掲載物の中で一茶の生涯に関して、次のように書かれている。
小林一茶は松尾芭蕉・与謝蕪村とならび、江戸時代を代表する俳人である。
20,000をこえる俳句を残しているが、その生涯は逆境の中での苦難なものであった。
一茶は1763年(宝永13年)5月5日、柏原宿(長野県信濃町=終焉の地)に生まれ、三歳で生母、十四歳で祖母を亡くし、15歳で江戸に奉公に出されている。
江戸での苦しい奉公生活の中で俳句を学び、30歳から36歳まで関西・四国・九州を巡る修行の旅によって、ようやく俳人として認められるようになった。
39歳で父が亡くなると、継母・弟と遺産相続問題が発生する。
この間、何度も、江戸と故郷を行き来して、北信濃に多くの門人をつくっていく。
また、「一茶調」といわれる、数々の俳句も生み出している。
一茶は50歳で帰郷し、52歳で結婚、3男1女をもうけたが、次々となくなり、妻も失って、三度目の結婚後、一茶はさらに不幸にみまわれる。
65歳の夏、宿場の大火で我が家を失い、その年の11月19日、焼け残った土蔵の中で65歳の生涯を閉じている。
筆を手に一案の小林一茶 小林一茶の句碑
句碑には次のように彫られている。
門の木も 先つ々がなし 夕涼(かどのきも まず つつがなし ゆうすずみ)
この句は、15歳で江戸に出た一茶が、1791年(寛政3年)、俳諧師となって14年ぶりに帰郷した折の感慨を詠んだものである。
小林一茶は火災で本宅を消失、後に住んだ土蔵と庭に咲く花
土蔵と弟宅の間にある庭に咲いた、満開の美しい花
本宅消失後に一茶の住んだ土蔵、一茶はこの土蔵で生涯を終えた。
1827年(文政10年)閏6月1日に柏原宿の大火によって、我が家を焼失した一茶が仮住まいしていた土蔵である。
土蔵を住居にして、一茶は次の句を詠んでいる。
「やけ土の ほかりほかりや 蚤(のみ)さわぐ」
この土蔵は1930年(昭和5年)、小林家から一茶終焉の土蔵を譲り受け、史跡として整備し、1957年(昭和32年)5月8日、一茶と弟分の敷地をあわせて国史跡に指定されている。
土蔵は桁行3間半、梁間二間の切妻造り、茅葺の置き屋根である。
内部は土間で、北西の隅に仮住いの為の地炉が掘られている。
火事の後一茶は、門人宅を転々として療養し、11月8日修理を終えた土蔵に帰宅、19日に65歳の生涯を閉じている。
一茶が火災焼失後を過ごし、生涯を終えた土蔵の内部
一茶の弟の邸宅、一茶の土蔵と併せて国史跡に指定されている。
この建物は、1827年(文政10年)の大火後に建てられた建物で、一茶の弟弥兵衛分の敷地にある町家である。
晩年、故郷に定住した一茶は、父の遺言に従い、間口9間の家を仕切って、弟家族と同居するが、大火で類焼し、仮住まいの土蔵で亡くなる。
大火直後に建てられたこの町家は、1847年(弘化4年)の善光寺大地震に耐え、住居の柏原宿を伝える貴重な建物となっている。
桁行4間、梁間3間半、寄棟造りの二階建てで、茅葺、正面・南西・背面に下屋があり、部屋は四つ間取りで、南側に上座敷、下座敷、北側に寝間、茶の間と、通り土間がある。
後に、この家に住んだ大工の米蔵は、2皆を増築し、1861年(文久元年)の金沢藩の参勤交代の際、二十人馬一定が宿泊した記録が残されている。
弟宅の囲炉裏のある茶の間と奥の下座敷
偶然に通りかかって立寄った小林一茶の故郷、終焉の地でもあるここ北信濃は、当時、北国街道といわれ、江戸と越後や北陸を結ぶ重要な街道であった。
この街道の宿場町が、一茶の故郷「柏原宿」である。
一茶は、家庭的にはめぐまれず、逆境の人生であったが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残している。
俳句といえば、すぐに私どもが思い出すのは、松尾芭蕉であるが、小林一茶も江戸時代を生き抜いた俳人として評価され、松尾芭蕉と与謝蕪村の二大巨匠に次ぐ存在として一茶が評価されている。
私は、聞き覚えのある句が、一茶の句かどうか分からなかったが、こうして一茶の句にめぐりあって詠んでいると、若かりし頃に、聴き覚えの幾つかの句が、一茶の句であるのに驚かされる。
一茶の句をあらためて紹介すると・・・
● めでたさも 中くらいなり おらが春
● やせ蛙 負けるな 一茶ここにあり
● 雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
● 名月を 取ってくれろと 泣く子かな
● 我と来て 遊べや 親のない雀
● やれ打な 蝿が手をすり 足をする
誰もが、一度は耳にしたことがあるこれらの句は、松尾芭蕉や与謝蕪村とは違う感覚を、多くの人たちが持たれ、一茶のユーモアセンスを感じているようである。
私は写真が下手なりにも好きで、撮影する時には、最初に構図を決め、光の強弱などを、一つ一つを決めながら、出来栄えをイメージして撮影していく。
俳句も目の前に繰広げられる世界を、どのようにまとめ、どのような言葉で表現するかの必要性が出て、出来上がる作品のイメージを繰り返し行い、創りあげていくと思われる。
このことは、絵画も含め、全ての芸術に当てはまるものだと思っている。
一茶の逆境の人生が、作風にもよく現れ、一茶は常に前向きで、強靭な精神や若さを持っていたように感じられる。
特に驚くのは、人生も終わりに近い、52歳で初めて結婚し、三男一女をもうけたことや、さらに三度目の結婚もして、65歳で妻が懐妊するという、現代の常識でも考えられないような、逞しい精力が感じられる。
一茶も、人生の最期に幸せをつかんだかのような安らかな時が、思いもよらない大火事に遭い、家は焼かれ、一瞬にして、焼け残った土蔵でのどん底生活を余儀なくされている。
しかし、家族と子供を求め続けた一茶に、ついに朗報がもたらされた。
一茶が65歳にして妻が懐妊し、今度こそは幸せになろうと決意、大切な妻をいたわり続けていたと思われるが、一茶はその子供を見ることなく、土蔵で三度目の中風の発作を起こし、他界してしまった。
一茶の死から半年後、妻の「やを」は娘「やた」を出産する。
この娘「やた」は、夭折(ようせつ=若くして死ぬこと)することなく成長し、明治の世まで生きる事ができたようである。
天国にいる一茶の想いは、最後に通じ、一茶の笑顔が浮かんでくる。
小林一茶の、終焉の地の観光を終えた私たちは、駐車場に戻り、観光の名所として全国に知られている野尻湖に向かって行った。
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