今日のころころこころ

2017・6・25 テキトーに渡るおばさんの橋 横浜の架替関東大震災復興橋梁・藤江橋 藤江新田の地内に當ればなり前案新田橋を改む

関東大震災で壊滅状態になった横浜の橋。復興事業で国施工37橋・市施工141橋が新築・改築・修築された。
新田間川に架かるのは、現存は新田間橋1橋。架替は烏帽子田橋・藤江橋・霜下橋・浅岡橋・岡野橋の5橋。
烏帽子田橋から帷子川より分かれた新田間川が始まる。

烏帽子田橋の次は藤江橋。



藤江橋は市施工・復興費河川費支辨橋梁44橋のひとつ。昭和37年に架け替えられた。



旧橋は横浜震災復興誌によれば。
位置・神奈川區岡野町地先(市道)
橋種・木橋
橋長・18.82m
有效幅員・8.18m
面積・153.95㎡
施工期・著手昭和二年三月二十五日:竣功昭和三年四月三十日
總工費・20.166.72円
とある。
親柱は、旧橋は不明。昭和37年当時はアンシンメトリーな洒落た感じだったと思われるが、今はなかなかに百戦錬磨なのである(^^;



そのためか、横にぴったりと人道橋が架かる。



横浜震災復興誌には、岡野町に併合せされたる往地藤江新田の地内に當ればなり前案新田橋を改むと記されている。
そう。
西区の河口は江戸中期~明治にかけて新田開発で生まれた土地。
宝暦12年に池上新田の開発に成功した武蔵国橘樹郡大師河原村(川崎市川崎区)の名主・池上太郎左衛門幸豊は、宝暦13年より武蔵国荏原郡糀谷村(東京都大田区)から武蔵国久良岐郡戸部村(横浜市西区)に至る300町歩の新田開発候補地の見立てをおこなったが、費用の関係で、幸豊と関係を持つ人物たちが請け負うことになったという。
帷子川河口の新田開発は、芝生村の海岸沿い・帷子川左岸・帷子川右岸の三つに分けられ、そのうちの帷子川両岸を江戸は深川の尾張屋九平次が請け負った。
ここで調べ足りてない(^^;
資料によっては尾張屋九平次とあり、資料によっては尾張屋太仲・武平次親子とある(^^;
ま(^^;
この請け負い場所の開発は困難だったようで尾張屋は尾張屋新田の開発のみで頓挫。帷子川左岸の権利を藤江茂右衛門へ、右岸の権利を平沼久兵衛へと譲渡した。
よほどに困難だったようで、茂右衛門も藤江新田の開発だけで頓挫。開発権は更に岡野勘四郎へと譲渡されたという。
この藤江橋は、藤江茂右衛門さんの名前から名付けられた。
尾張屋橋は尾張屋さんから藤江橋は藤江さんから・・・先人の苦労が橋の名に残る。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「横浜の関東大震災復興橋梁」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事