今日のころころこころ

2014・5・31 おばさんの道 三崎道のなもた坂付近の付近(?)

いくら最終日とはいえ、これで5月かよ。ま。昨日の続き。

なもた坂を歩き、といってもほんの30秒ほどの行程。さてさてどうしようか?ブログネタにするなら、所縁の城跡を訪ねるなり三浦道寸義同の墓を訪ねるなりすればよいのだろうけど・・・私には、そもそも三浦一族がわからない。
小網代の港に寄っていこうか。

良い港だなぁ。

ものの本などによれば・・・
三浦氏は、三浦為通が前九年の役(1051~62)の大功により源頼義から三浦の地を恩賞として与えられたが始まりとある。桓武平氏の子孫と称されてるがこれは、ま。
後世に有名なのは源氏再興の功績。
治承4年(1180)石橋山の合戦に源頼朝に味方すべく、三浦一族の棟梁・三浦大介義明の次子・義澄が大将となり一族をひきいてが出陣した。が、豪雨に阻まれ酒匂川を渡ることができず間に合わなかった。義明の弟であるところの相模岡崎城主・岡崎義実は嫡子・真田義忠とともに出陣。こちらは頼朝に合流したが、援軍が来ぬなか先陣をきった義忠は壮絶な討ち死に。頼朝は大敗。七騎落ちといわれる惨敗で海路安房国に逃れた。
三浦一族は、由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と小競り合い。衣笠城に帰り一族集結と援軍で畠山軍を待ちうけるが、10倍の勢力には勝算の見込みたたず、棟梁・義明は義澄以下一族を海路安房国に逃し、たったひとりで壮絶な討ち死にをしたという。
このとき頼朝と安房で合流した三浦一族約400騎がその後の鎌倉幕府創設のための大きな力となる。
が、三浦氏と源家との付き合いは頼朝に始まったわけではなく、ずいぶん以前からのようだ。もともと三浦半島にあった勢力だったのか都からの勢力だったかは不明だ。三浦半島にも高塚古墳がいくつもある。これらの古墳を築いた勢力とはどんな関係だったのだろうか。
安房国との関係も興味深い。
頼朝&三浦一族が敗走した時には逃げ込める関係だった。が、時代はくだり、北条早雲の時世になると、北条水軍と里見水軍はどんぱちとやってる。北条水軍の方が劣っていたようで、鶴岡八幡宮が焼き討ちにあってる。伊勢盛時は完全に関係のない勢力だったのであろう。
そうだ。なもた坂だ。
新井城は三浦氏最期の場所とされてるが、この城主・三浦義意は、三浦道寸義同の嫡子である。この義同は、実は養子である。鎌倉幕府の要職を占めていた三浦氏であるが、執権・北条氏との勢力争いに敗れ、宝治元年(1247)に一族のほとんどが滅亡した。その時、三浦一族で唯一北条家に味方した佐原氏(4代義明が七男・義連を配置したのが始まり)が本家滅亡後細々と三浦介を継いでいた。北条氏に味方した盛時から八代目の高時には、後継の男子がおらず、扇谷上杉家から養子を迎えたのが義同、すなわち道寸であった。ところがその後、高時と側室との間に男子が産まれた。このことから後継争いが勃発し、高時は養子の義同(道寸)に討たれたのであった。
その後、伊勢盛時に攻められ、相模岡崎城住吉城と攻め落とされ、新井城に追いつめられ、持久戦となった。伊勢盛時は更に玉縄城を築き上杉よりの援軍を押さえ、とうとう義同・義意父子は開門して合戦となり、散った。
そして。義同辞世の句。
『うつものも うたるるものも かわらけよ くだけて後はもとの土くれ』
その後、北条水軍の拠点となった新井城も三崎城も浦賀城も、小田原北条家滅亡とともに廃城となったのであった。
ん・・・・・

三崎口駅に戻るバスの中で、ふと思いついた。時間はまだ早い。そうだ。衣笠に行って逗子から帰ろう!
バスの運転手さんにうかがう。衣笠駅にバスで行けますか?行けますよ!横須賀駅行きに乗ってください。3番!
お~!到着と同時にジャストにあるじゃん!ダッシュで飛び乗る。
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