気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

無礼講 ・・・ 裸ごっこ

2010-04-17 18:26:44 | Weblog
 なんでも、会社なんかの宴会では「無礼講」というのが一つの美徳らしくて、部長も課長も係長もヒラも階級の垣をとり払って飲む、ということですが、それはあくまでたてまえであって、やっぱり、部長はオレは部長であるという顔をしており、ヒラは自分はヒラの分際にしかすぎぬ、というわきまえのもとに振る舞っているといいます。

 「無礼講」という看板を本気で信じて、言いたい放題の本音を吐き出したら、たちまち左遷というのが、この娑婆の現実なのだそうです。

 なんのことはない、せっかく、素っ裸になろうと言いながら、所詮は「裸ごっこ」をしているにすぎません。





いつのまにか ・・・ 

2010-04-17 13:52:38 | Weblog
寝ようとする。

時計の音がカチカチ鳴っている。

寝られない。

それは「できない」自分を

  時計の音で数えているのだ。

安定感のない自分なのだ。


知らぬまに寝ている。

時計の音が気にならない。

時計の音に溶け込んで

いつのまにか

  時計の音とひとつになっている。









「さようなら」 ・・・ とは言いません。

2010-04-17 13:18:00 | Weblog
私は

どんな人とでも

別れるときに

  「さようなら」 ・・・ とは言いません。


「またね ・・・」

「気をつけて ・・・ 」(元気になりなさいよ)

          ・・・ と言います。


「きょうは楽しかった。またぜひお会いしましょう!」

・・・ こう言って別れるのが最高だ ・・・ と思います。


すべての人間関係が

「ぜひまた」という明るいものでありたい ・・・ と思っています。










坐禅 ・・・ 天地をつらぬく

2010-04-17 12:06:34 | Weblog
坐禅には

特別むずかしいことは ・・・ なにもないし

まして

神秘的なことなど ・・・ すこしもありません。


だから

やろうと思えば

  だれにでも

  どこででも

  すぐに ・・・ できます。


「只管打坐」 ・・・ といいます。

  ただ坐るだけ

  ひたすら坐るだけ ・・・ です。


「坐」という字は

  土の上に人間が二人向き合っています。


「坐る」とは

  土の上に人間が

    腰をつけてじっとしていること ・・・ です。


坐禅は一人で坐ります。


一人で坐り

  自分自身と向き合います。

この場合

土の上に腰をおろす

  という意味あいをもった「坐」という字は

             ・・・ 含蓄がありますね。


大地に腰をおろすとは

つまり ・・・ 自然と一体になることです。

大地の上に

    ・・・ まっすぐ背骨をのばすことです。

人間の体の中の脊梁骨(せきりょうこつ)が

    ・・・ 天と地をまっすぐにつらぬきます。

自然と一体になるには

    ・・・ この姿勢がいちばんいいのです。


あくまでも

背骨をまっすぐにのばすこと ・・・ が基本です。


いきいきとした坐禅の姿勢には

        ・・・ どこにも無理がありません。

春風のようにのんびりしているようでありながら

  ・・・ おかしがたい威厳があります。

  ・・・ 隙のない堂々たる姿があります。

・・・ 天地を貫く一本の脊梁骨のみ ・・・ です。


これを中心に

心も体も一つであり

豊かな息づかいを

  ゆっくり静かに吸い込み吐き出す繰り返し ・・・


新しい自然な意気が ・・・ 蓄えられてきます。

極妙至極の新しい力が ・・・ 湧き出てきます。














欲 ・・・ 自分を見失う 

2010-04-17 11:04:15 | Weblog
われわれ人間が

いろいろ さまざまな欲を持っていることを

  しっかり知っていること と

  その欲におぼれてしまうこと とは

          ・・・ まったくちがいます。


欲におぼれてしまえば

  やがて 苦しみが待っている ・・・ ばかりです。

欲というのは

  際限がない ・・・ からです。

これでいいという

  限界を知らない ・・・ からです。


われわれが

欲におぼれてしまわないためには

  自分で自分を判断すればよい ・・・ のです。


「ははあ、これがオレの欲か」

          ・・・ と 気づけばよいのです。


そうしているかぎり

欲におぼれて

  自分を見失う ・・・ ことはありません。











息 ・・・ 意気

2010-04-17 10:04:36 | Weblog
他人と息が合う ・・・ というのは

  心を同じくする ・・・ ということです。


心と心が一つになり

「さあ、いっしょにやろう」という気持ちが

  しぜんに湧いてくる ・・・ ことです。

つまり

意気がみなぎり

意気と意気とがとけ合う ・・・ のです。

生きるというのは

    こういうこと ・・・ ではないでしょうか。


息は意気に通じ

  生きることに通じます。


息が整えば

知らず知らずのうちに

  意気が湧きあふれ

    生き生きとした自分が生まれます。


息のつきかた

コントロールのしかたひとつで

  このように人生が変わるとしたら ・・・

なにがなんでも

    やってみる ・・・ にかぎりますね。










「ありがとう」 ・・・ 難値難遇

2010-04-17 09:16:20 | Weblog
「ありがとう」 ・・・


「ありがとう」 ・・・ ということばは

むかしは

「難有」であり

「なかなかありえない」 ・・・ という意味を持っていました。


「ありがとう」は

  じつは 仏教の言葉です。


仏教の言葉に

「難値難遇」(なんちなんぐう)というのがあり

「値(あ)い難(がた)し、遭(あ)い難(がた)し」と読みます。

つまり

これが「ありがたい」のもとの意味です。


では

なぜ「ありがたい」のでしょうか。


人間としてこの世に生まれることは

      ひじょうに難しい ・・・ からです。

われわれ人間には

とても想像もつかないような無限の時間の中を

さまざまな変化を繰り返しながら

      形を変え姿をみせます。


命を受けて

人間となって生まれてくるということは

  じつに難しいこと

つまり

  「ありがたい」こと ・・・ というべきなのでしょう ね。