「すみません。今日部屋は空いてますか?」
女性は「最近お客が少ないから掃除してないけどそれでもよければ、、、何部屋必要ですか?」と聞いた。チュンサンは躊躇してから「、、、2つで、、、」と言いかけた。すると、横からユジンが遮って「一つでお願いします。私たち夫婦ですから」とさらりと言った。女性は特に気にもせず「わかりました。こちらへどうぞ」と二人を案内した。
女性に案内された部屋は本当に小さかったし、掃除も不十分だったが、こざっぱりとした快適そうな部屋だった。女性はオンドルがあるのですぐ暖まると言って部屋を出て行った。二人は気まずいまま部屋を見回した。特にチュンサンは、アメリカ育ちで韓国の民宿の知識がなく、しかも状況が状況なだけに、まるで誰かの家に転がり込んだような気分になって、コートを着たままぼんやりと立っていた。すると、ユジンがおどけてインスタントカメラを出してきて「初夜の記念」などと言っていきなり写真を撮ったため、余計に変な気分になるのだった。
ユジンは「チュンサン、冗談だってば」と笑い飛ばしたが、チュンサンは全く寛ぐことができずに、部屋の隅で体育すわりをしてしまった。ユジンはかまわず、少し汚れている床を水拭きしながら、無邪気に話をつづけた。
「思ったよりきれいだね。大学の時にゼミで合宿したんだけど、その時の民宿では、一部屋に20人も寝たのよ」とあたりをきょろきょろ見回している。
「そうだ。さっき歯ブラシ買ったんだ。二つあるんだけど、先に磨く?、、、」
ユジンはそこまで言うと、チュンサンにじっと見つめられて、急に我に返って恥ずかしくなったようで、おしゃべりが止まってしまった。そして隣にちょこんと座ったきり「明け方はきっと冷えるんだろうなぁ、、、」と言いながらも、チュンサンの方を見ようともしない。チュンサンはそんなユジンの顔を覗き込んで、そっと呼びかけた。「ユジン、、、」
すると、ユジンはやっとこちらを向いて、チュンサンをじっと見つめた。ユジンのまなざしは、まっすぐで清らかで、少しの曇りも迷いもなかった。チュンサンはそんなユジンが愛おしくてたまらず、ほほに触れてそっと髪を撫でた。その目からは涙が今にもあふれ出しそうで、慈しむように両方の手で髪の毛を優しくなで続けた。こんなに愛しいのに、彼女は自分の妹なのだ、と思いながら。
チュンサンの心は大きく揺れていた。ユジンと二人きりの夜。邪魔する者はだれもおらず、隣には恋焦がれた彼女の柔らかな身体がある。抱きしめるだけでも、ユジンの折れそうなほど華奢な体を感じられて、胸の鼓動は早くなっていく。しかし後ろ髪をひかれる思いで、そっと体を離すしかなかった。そしてもう一度、ユジンの髪を優しくなでて、ユジンの頬にそっと触れた。
チュンサンはどうしてもキスをすることができず、
ユジンとしても、今夜はチュンサンとどんな事になっても良い、愛しているのだから、と覚悟はしていた。やっとたどり着いた二人きりの夜なのに、どうしたんだろう、ユジンは解せないまま、そっと戸を開けて暗闇にただずむチュンサンの後姿を見つめた。
彼は真っ暗な海を見ながら煙草を吸って、心を落ち着けているようだった。いつもは広く見える背中が、いやに小さく弱々しく見えてしまう。ユジンは後ろからチュンサンをそっと抱きしめた。今度は自分が守ってあげたかった。
「チュンサン、私ね、もう何も怖くないの。何があっても決して怖がらないから。あなたさえいれば大丈夫よ。」
チュンサンにとってその言葉を聞ければ充分だった。これ以上ユジンに触れてはならない。チュンサンはユジンの柔らかな身体と温もりを背中に感じながら、そのままの姿勢で海を眺めていた。ユジンは、チュンサンを抱きしめながら、波の音を聴いていた。磯の香り、チュンサンの匂い、タバコのハシバミのような香りを胸いっぱいに吸い込んだ。彼の鼓動は始めは早鐘のように早かったが、そのうちゆっくりと穏やかになり、波音と一体になっていった。ユジンはそれを感じとると、そっと部屋に戻って行った。しばらくしてチュンサンが部屋に戻ると、部屋には二つ布団が敷かれており、ユジンはすやすやと眠ってしまっていた。きっと、昨夜からほとんど寝ていなくてとても疲れていたのだろう。チュンサンはユジンと一緒の布団に潜り込んで、ユジンのぬくもりをそっと感じた。そして、その晩もほとんど眠ることができずに、独りユジンの寝顔を飽くことなく見つめていた。これがユジンと過ごす最後の夜になると思うと、眠るのも惜しかった。すべてを目に焼き付けておかなければ、そんな気持ちだったのだ。そしてそんなことをしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだった。チュンサンが眠りについたとき、2日目の夜明けはもう間近だった。