自分の中の常識を疑え
「潜在意識の書き換え」というものに挑戦しています。その中に「自分の中の常識を疑え」というのがあります。自分が「常識」と思っているものは果たして本当に常識なのか、正しいのかということです。
私たちはこれまでの人生で、さまざまな経験や知識を得ていく中で、必ずしも「真実ではない」ものもまた植え付けられていることがあります。
ごく限られた、狭い範囲での常識やセオリー、メソッド、考え方やものの見方を半ば強制されています。
私たちは家や学校、会社、クラブ、町内会など常に一定のコミュニティに属しており、「郷にいれば郷に従え」という言葉通り、その郷に従って他者と共生しています。
法律や世間の常識にプラスして、このコミュニティ内のローカルルール、環境に準じた規範、主催者(リーダー)の思考(趣向)、構成メンバーとの兼ね合い(暗黙の了解、好まれる一定の手順)など様々な要因が絡んで、私たちの中に「常識」ができてきます。
多くのコミュニティ、様々な人と出会えば出会うほどその「決常識」は増えていきます。全てというわけではありませんが、一定のものはそのコミュニティの外にも適用されます。
いつも自分はこういう風にやってるから、ここでもうまくいくだろうと、同じ「常識」を適用する、前の会社ではこうやっていたから、転職先でも同じことをやる。
しかし、コミュニティが変わればその常識が通用せず、何でそんな風にやるんだと怒られる場合もあります。
自分の常識が通用しない
地域や文化の違い
関東では暗黙の了解でエスカレーターの右側を空けますが、関西では左側を空けるなど、地域によっても自分の常識が通じないことはよくあります。
※ 本来エスカレーターは止まって乗るものですので空ける必要はないですが・・・
子供の頃に遊んでいた遊びのルールが、他の地域では全く違っていたとか、家では「目玉焼きにソース」が常識だったのに、醤油をかける人もいれば塩をかける人、ケチャップやマヨネーズを使うのが当たり前だったという人もいる。
海外
海外に行けば尚更で、例えば、カスタマーサービスを見ればよくわかります。
外国の場合、お客だろうと容赦はありません。お客が入ってきているのに「いらっしゃいませ」も言わずにレジでスマホ見ながら、ご飯食べてるなんてこともあります。
「〇〇ありますか?」と聞くと、舌打ちして「知らない」と言って目も合わせないなどザラにあります。
お釣りをちょろまかしたり、小銭を投げて渡してくることもあります。
タクシーに乗れば、料金が900円なのに「お釣りがないから1000円でいいだろう。細かいことは気にするな」と言ってきたりします。
いずれも日本のカスタマーサービスのレベルで考えてしまうと、怒りが湧いてくるレベルでクレームものですが、向こうの常識ではそうなっているのです。
この時点で「常識」と思っていたものが、あくまでも「自分限定」のもので絶対的ではないとわかると思います。
子供の頃に植え付けられた常識
さて、問題なのは、子供の頃に植え付けられた「常識」です。大人なら「ああ、ここでのルールね」と区別できるものも、子供にとっては、教えられたことが初めての場合が多いので、比較対象や経験上での検討もできず、これが「世界の理」であると勘違いすることでしょう。
この勘違いした「世界の理」が厄介です。大抵は近くにいる大人、つまり親や先生からもらってしまったものです。
具体的には
お金は簡単に稼げない
お金持ちはうまいこと(悪いこと)やってる
いい学校を出なければ幸せになれない
良いことの後には悪いことが起こる
苦労しないと立派な人間になれない
好きなことでご飯を食べるのは難しい
などです。
こういうものが潜在意識に書き込まれていると、引き寄せ界で言われる「そうありたいと思う現実を自分で選択する」ということができません。
お金を持っている状態を選択しようと思っても、書き込まれた「簡単に稼げない」という「常識」が邪魔してくるのです。
どうやってその「常識」を処理するか
メンタルブロックというそうですが、これを解除するのに過去に遡って内観をしていくというプロセスをやっております。
常識やトラウマを植え付けられた時点を思い出し、本当に悪いことだったか、言われたことが正しかったのかどうかを思い出しては検証していく作業です。
大抵は親か先生を思い出せばいいのですが、問題もあります。
まず自分の中にどれだけのローカルルールが書き込まれているのかがわかりません。
いつ誰に書き込まれたものなのかもわからないものもある
ということで、とりあえず、「明らかにこれ」というものから、外していこうと思います。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました